Lee's Words 李国秀オフィシャルブログ

香港から帰国後、サッカーを辞めてから全日空に加入するまでの経緯

読売クラブ西ドイツ遠征にて。後列右端のサングラスの男性は松木安太郎氏のお父様。

読売クラブ西ドイツ遠征にて。後列右端のサングラスの男性は松木安太郎氏のお父様。

───1977年に香港から帰国した後は、サッカーを辞めてしまったのでしょうか?

もう本当にサッカーを辞めようと思いましたよ。横浜生まれ横浜育ちだから、貿易はなくならないだろうということで、貿易会社をやろうとしていました。親戚が大阪で貿易会社やっていましたので、そこへ勉強に行きました。

1977年か1978年か、そのぐらいに大阪に行きまして。大阪にはいとこ兄弟がいたんです。いとこの弟はとても成績優秀で大阪大学を卒業して日立製作所に就職しようとしていました。しかし、選考に落ちてしまうわけです。在日ですからね。そういう時代でした。

そこで彼には「お前がこの会社に入れ」と言いました。私がいた貿易会社は小さな会社ですから、何人も雇えるわけではありません。だから「弟である君が会社に入って、私は横浜に帰るよ」と。

それで私は横浜に帰って、おふくろのお店を手伝ったりしていました。

───サッカーは、まったくやっていなかったのですか?

その時代はもう酒浸りの日々ですよ。「これからどうしようかな」と呆然としていましたね。おふくろがやっていた店を手伝いながら、たまにYCAC(横浜カントリー&アスレチッククラブ)というスポーツクラブでサッカーをやったりはしていましたが。

YCACというのは1868年から続く外国人専用のスポーツクラブで、なかなかメンバーになれないのですが、私が上手いと思われたのか、クラブのメンバーに「入れ、入れ」と言われて、入れてもらいました。

そんな感じでブラブラしている時に、横浜サッカークラブという地元のクラブを全日空が支援するようになるから、君にも手伝ってほしいという話が舞い込んできたのですよ。

───チームの中ではどんな役割だったのですか?

選手としてはもちろん、監督的な立場でも、チームのトレーニングも仕切っていました。

───それが1979年?

1979年、あるいは1980年か。なにせ2~3年は酒浸りでしたから。横浜サッカークラブは当時、神奈川県1部リーグで、その間、横浜トライスターサッカークラブと名前が変わりました。

1983年には関東リーグで優勝し、1984年から日本リーグ2部になるのですが、関東リーグまでは選手兼助監督という立場でした。

今にして思うと「運命」というものを非常に強く感じます。読売クラブを辞め、サッカーを辞めようと思うとバルコム監督に声をかけられ、その後遊びでサッカーをやっていたら、横浜トライスターに引っ張られ……。

───横浜トライスターに入ったきっかけは誰かの紹介ですか?

というよりも地元ですからね。遊びで出入りしているうちにといったところでしょう。メンバーはみんな知っていましたし。

クラブチームだから練習場がなく、夜になって高校のグラウンドに集まってやったりとかしていましたよ。地元のサッカー好きが集まってやっていたのですが、私は「ギャラも出ないのにやったってしょうがないでしょう」と冗談っぽく言っていた矢先に全日空の支援の話が舞い込んだのです。

───全日空が県リーグの横浜サッカークラブを支援しはじめたことに少し唐突感があります

当時、JALがバスケットボールのチームを持とうとしていたことに対抗しようとしていたのですかね。全日空の宣伝部課長だった方が早稲田サッカー部出だったらしく、彼が何かのきっかけで宣伝部のお金を動かしたのか、くわしくはわかりませんが、ともかく「全日空はサッカーを応援します」となったのです。

そこで、私が交渉したところ、チームの中で私にだけギャラが出るようになったのです。少しですがね。

───当時のメンバーは生え抜きというか、クラブのメンバーだけですか?

少しずつ社員選手は増えていきました。宣伝部の課長が、中央大学から社員選手としてキーパーを獲得してきてくれたりとか。社員選手として入ってきた選手は使えない選手が多かったですが(笑)。

私には権限がありましたから、チームの予算もいじれましたし、おもしろかったですね。

───今で言うところのゼネラルマネジャー的な立場でもあったと。

そうです。名目上の監督はいましたけれども。

最初は県リーグに2年いて、関東リーグも2年で優勝して日本リーグ2部に昇格したのですが、関東リーグまでは、チームを仕切る権限がありました。

日本リーグ2部になると、お金の流れとか様々なことを明らかにしなければならず、全日空スポーツという法人を新たに設立し、そこからお金が動くようになったのです。私は「選手だけでいい」ということを会社から言われまして。

要は組織でやりたかったのでしょう。日本リーグに昇格という状況になって「やりたがり」がたくさん出てきたのですよ。自分の手柄になると思って、いろいろなことをやりたがる人が出てきました。

───監督には栗本直さんという方が就任されます。

フジタ工業のゴールキーパーだった人です。サッカー観が違うので大変だったですけれどもね。

───選手は李さんの他にどんな方がいらっしゃったのですか?

ブラジル人のカルバリオとかね。彼はフジタ工業との契約がトラブって、宙に浮いていたところを私が獲得してきたのです。もともとカルバリオから電話があったんですよ。「イレテ」と(笑)。

まだ全日空が横浜トライスターという名前で関東リーグにいた頃で、私には権限がありましたから、交渉して、彼の能力からすると格安の年俸で獲得できました。一応、獲得前に全日空の人事部長には相談しましたけどね。

シュートが上手くて、とてもいい選手でしたよ。関東リーグレベルでは別格でしたね。

もうひとり、古河電工でプレーしていた木口茂一さんという方もいて、彼は最終ラインでプレーしていました。とてもクレバーでいい選手でした。

あとはヴェルディでGMもやった唐井直君とか。彼は東芝の社員選手だったのですが、チームの様々な手配をするマネージャー役の人が彼を連れてきたのだと記憶しています。で、彼が東芝を辞めて入ってきたわけです。特別上手いというか、クリエイティブな選手ではなかったのですが、頑張るタイプでした。

他にもいろいろな人がいましたが、今もサッカー界で名前が挙がる人だとこのくらいですかね。

───なるほど。では、次回は日本リーグ2部に昇格して以降の全日空の話を詳しくお伺いします。