Lee's Words 李国秀オフィシャルブログ

桐蔭学園サッカー部はいかにして強豪になっていったのか

1989年度高校選手権2回戦岐阜工業高校戦後のインタビュー

1989年度高校選手権2回戦岐阜工業高校戦後のインタビュー

───今回は長谷部茂利さんら、サッカー部一期生が3年生になった1989年頃の話からお伺いします。このときには桐蔭学園は様々な大会で頭角を現していきました。

関東大会優勝、インターハイ出場、高円宮杯プレ大会3位、高校選手権ベスト8。

はじめてタイトルを獲った関東大会では、武南高校との決勝で、前半15分くらいまで選手が、今まで見たことがないくらい硬かった。「タイトルがかかるとこんなに硬くなるんだ」と驚いたことを記憶しています。

───清水商業と深い縁ができたのもその頃でしょうか?

長谷部君たちが高校3年になる春休みに清水商業のグラウンドで練習試合をしたのが最初の出会いです。

その前に浜松でフェスティバルに参加していたのですが、その帰り道に清水商業の大滝監督にご連絡さし上げて、清水で練習試合をさせてもらったという経緯です。土のグラウンドでしたけれども、塵ひとつ落ちていないほどきれいに整備されていて、驚きましたよ。

練習試合では大滝先生が黒い服を着てレフリーをやってくれまして、大変ありがたかったのですが、実はその練習試合で桐蔭の選手が退場させられて(笑)。そんなことがありつつ、親交を持つようになったということです。

───浜松のフェスティバルでも強さを発揮していたのでしょうか?

浜松では非常に不愉快なことがありまして、途中で帰ってきたのです。そのフェスティバルには大学生も参加していて、磯貝君らがいた東海大学と対戦したのですが、彼らは桐蔭の選手の足をバカバカ蹴ってくるんですよ。

監督から「負けたら坊主」と言われていたとか、高校生相手なんだから絶対勝てと言われていたとか、そんなところでしょうよ。くだらない話ですよ。とにかく危なかったので「やめだ、やめだ」と言って前半で試合を止めさせました。

東海大学側が「えっ!?」と言ってるんで、私は言ったんですよ。「足を蹴ってくるんだったらやらないよ」「君たちの優勝でいいから」と。あのまま続けたら、選手が壊れてしまいますからね。

───清水商業と対戦したことはあったのですか?

1989年の高円宮杯プレ大会で準決勝で対戦しましたね。桐蔭学園は負けてしまったのですが、どちらが勝ってもおかしくない、本当にいい試合でした。そんな経緯で清水商業の大滝監督とも深い縁ができました。

高校選手権準々決勝 桐蔭イレブン入場シーン

高校選手権準々決勝 桐蔭イレブン入場シーン

高校選手権ベスト8に進出し桐蔭サッカーを全国に知らしめる

───12月には高校選手権に出場し、全国にその名が知られることになります。

大会前からたいへんな注目を浴びたことが印象的です。結局はベスト8でPK負けしてしまいましたけどね。

実は開会式でちょっとした事件がありました。大会の習わしで、入場のときはどの学校も本部席に向かって敬礼するのですが、長谷部君たちは本部席に向かって手を振ってしまったのですよ。

ただでさえ桐蔭は嫌われているのに、余計に嫌われるなと(笑)。

───本部席にいらっしゃるお偉いさんたちを挑発してしまったような格好になってしまったのですね。それ以前から嫌われていると感じていたのですか?

高体連としては、教員ではない人間が監督をやっていることが気に食わなかったのではないですか。夏のインターハイのときから、私を退場させようとする動きがありましたし。

───大会が始まるとマスコミの注目も一段と大きくなりました。

5-0で勝った試合のあと、「大変不満の残る試合でした」と言ったら記者さんたちに驚かれたことをよく覚えています。

スコアの上では勝っていたとしても、厳しく指摘しなければならない試合というものがあるのです。

───その試合はどのような点が悪かったのでしょうか?

桐蔭が勝つと新聞で大きく取り上げられますから。選手たちが自分も新聞に出てやろうと思ったのか、無理な角度からシュートを打ったり、パスすればいいところでドリブルをしたりといったことが起こったのですよ。

逆に言うと、選手をそうさせてしまうくらい大会が華やかだったということでもあるのですが。

───最後は準々決勝でPK負けでした。

試合の後、泣く子がいましてね。「人前で泣くな、不愉快だ。泣きたいのならどこかで一人で泣いてろ」と厳しく言いました。

彼らはこの先の人生、まだ先は長いですからね。サッカーに負けたくらい、泣くようなことではないのですよ。

───その後、長谷部茂利さんは中央大学、戸倉健一郎さんは青山学院大学に進学します。

長谷部君は最初、筑波大学に行きたいと言っていたんです。筑波側も獲ると言っていました。筑波大学は国立大学だから学費も安いし、長谷部家にとってはいい話であったと思いますが、私は「中央に行きなさい」と言ったのです。

───なぜですか?

当時の日本サッカー協会が中央閥でしたから。もちろん、本人がどうしても筑波大学に行きたいと言うなら、止めやしませんけど。

───生徒を大学にサッカー推薦で入学させるにはどのような手順が必要なのでしょう? 監督さんに話を通すのですか?

大学によってはOBだったりしますが、そういった方々と食事をしましたね。長谷部君たちを送り出したときは、私にとっても生徒を送り出すのは初めてでしたし、右も左もわかりませんでした。

サッカーでは高校年代は専門性を追求する年代。高校でサッカーができない生徒は大学でもプロでも当然無理でしょう。

一般論では大学に入学、その後企業に入社し、やっと一人前として認められるということなのでしょうが、サッカーは違います。サッカーでは十代で頭角を現せるかどうかが、職業としてサッカーをやれるかどうかの試金石なのです。そういう意味では、一般の価値観とは馴染みません。

───サッカーを辞める子も当然いるわけですよね

私は高校3年の4月に必ず面談をし、一年かけて進路を探すとか、サッカーを辞めなさいとか告げていきました。「辞めなさい」と言ってしまうのは、冷たく聞こえるかもしれませんけどね。親御さんを交えて、こういうことはフェアにしていきました。

結果、長谷部と杉山は中央大学、八城と望月は明治大学、戸倉は青山学院大学、この5人をサッカーで進学させたと記憶しています。

ただ、実を言うと1989年度の高校選手権が終わった後、辞めようと思ってたんですよ。

───それはなぜ?

エネルギーが切れちゃったんですよ。サッカーの指導というものは、相手にエネルギーを渡していくものですから、こっち側にエネルギーががなくなっちゃうんです。実際、辞めようとして相談もしましたしね。

そこからどうやって回復したかというと、一人で欧州を旅してきました。ドイツに行ったり、オランダに行ったり。自分のお金でね。

オランダではハンス・オフトと食事をし、サッカーを観に行きました。当時、ロマーリオがいるPSVのゲームを観たりしながら栄養補給をしたのです。

桐蔭イレブンの先発メンバー

1989年度桐蔭先発メンバー

横浜ベイブリッジユース大会を創設した経緯

───翌年は1972年度生まれの林健太郎さん、福永泰さんらが3年生になります。

林健太郎君が入学した経緯は複雑で、本当なら日大藤沢かどこかに進学しているはずだったのですよ。しかし、桐蔭学園の練習を見に来て、「こういうサッカーがやりたい」と思ったのか、すでに決まっていた学校を蹴って桐蔭に来ました。

すでに決まっていた学校からは、学費免除とか桐蔭より良い条件が出ていて、親御さんにとっての負担も少なく済んだのでしょうけど、彼自身の意志で来ました。桐蔭には学費免除などの制度はなかったですけど、彼のお父様は子供の意志を尊重して「桐蔭に決めました」と言ってくれまして。

───林健太郎さんが3年生のときの成績はどうだったのですか?

インターハイの準決勝で負けてしまったのがひとつの転機でした。

雨上がりのグランドで0-0のPK負けだったのですが、相手はシュート1本も打ってないのですよ。

こんな不愉快なことってあるだろうかと思いました。トーナメントですから、どちらかを勝たせなければならないのでしょうが、こちらも悪いプレーをしたわけではないですし。選手たちもがっかりしたろうし、私もがっかりしましたし。変な話ですよ。相手に1本もシュートを打たせていないのに負けるわけですからね。

この敗戦がきっかけになって横浜ベイブリッジユースサッカー大会というものを作ったのです。

───横浜ベイブリッジユースサッカー大会とは、どのような大会だったのでしょう?

子供たちが持ってる力を発揮して、良いプレーをしてくれればいいという人たちで大会をやろうということです。6月の敗戦から1ヶ月半で準備しました。

夏の三ツ沢、昼間は暑いですから、ナイターで2泊3日でやろうと。参加したのは国見高校、清水商業、読売クラブ、桐蔭学園の4チーム。当時の読売クラブのユースは松木安太郎君でした。

遠方のチームはどうやったら来てくれるかなといろいろ考えましてね。そのとき、国見高校の小嶺監督とは面識はなかったのですが、電話をさし上げ、長崎までお伺いして三顧の礼を尽くして来て頂きました。

───大会を作ったのは高校サッカーにありがちな勝利至上主義への反発心でしょうか?

勝てば官軍、負ければ賊軍という見方が、マスコミも含めて多勢ですから。私は子供たちが自分が持ってる力を発揮してくれれば、それでいいと思っています。負けたいとか、勝負を軽視しているということではなくてね。

子供のために「いい舞台」を作ってあげよう、そういう思いが強かったんです。

───桐蔭の生徒たちは高校年代から大人の視線を意識して、勝利至上主義、精神論とは違った価値観を追求していたのですね。桐蔭学園時代の続きは、また次回にお伺いします。