1993年桐蔭学園ドイツ遠征時、岡田武史氏と偶然の遭遇
日本代表が初めてのW杯出場を目指した時代の日本代表監督、加茂周氏、岡田武史氏にまつわるエピソードをヴェルディ元総監督の李国秀が語ります。
───コンフェデレーションズ杯で日本代表監督論が盛んになりましたが、今回は日本代表監督にまつわるエピソードをお話いただければと。
日本代表の監督というポジションは、国を背負うわけですから、とても大きなプレッシャーがかかります。
一方で日本代表の監督は日本国籍なら、言葉は悪いですけど“召集令状”を使って誰でも呼ぶことができる。つまり、自由にチームを編成することができるのです
───どの選手を代表に選ぶかは常に議論の的ですね。
編成する監督がどんなサッカー観を持っているかが、とても重要になります。サッカー人にはみな、サッカー観というものがあって、それを誰かが買ってくれるから監督というポジションが成り立つのだと思っています。
どういう人を監督に据えるか。強いチームほど内規が厳しく、弱いチームほど緩い。つまり、弱いチームほど、チームのコンセプトがぐらつきやすいわけですね。
ところで、日本代表に呼ばれて、「僕はあの監督とやりたくない」と拒否した選手っているんですかね? 聞いたことがないですけれども。
───日本ではアトランタ五輪代表で西野朗監督に招集された当時ヴェルディ川崎の石塚啓次さんが、招集に応じなかったことがあったはずです。
それは、とても正しいことだと思います。監督には監督の、選手には選手のサッカー観があるわけですからね。
代表に呼ばれることは、選手にとって基本的には嬉しいことなのでしょうとは思いますけど。
称賛すべき岡田監督の行動
───前回はハンス・オフト氏とのエピソードを話していただきました。オフト以降は、ファルカン、加茂~岡田時代と続くわけですが。
ファルカンさんはよくわからないですけれども(笑)、加茂周さんは私が10代の時から縁のある方ですね。
───李さんが読売クラブ時代から面識があるわけですね。
ただ、加茂さんのサッカー観は私とは違うなと思っていたので、あまり関心は高くなかったのですよ。批判とか切り捨てるという意味ではなく。
───サッカー観の違いとは具体的に言うと、目指すサッカースタイルが違うという意味ですか?
サッカーを捉える視点の違いです。簡単に言うと、加茂さんがトラッピングと呼ぶものを私はボールコントロールと呼び、加茂さんがサイドパスと呼ぶものを私はインステップキックと呼びます。
加茂さんをそんなに深く知っているわけではないのですが、彼の経歴を見ると関西学院大学からヤンマーディーゼルへ行き、日産自動車がサッカー部を強化するということで呼ばれた方です。
日本のサッカー史の中では、いわゆる「企業サッカー」の先駆者として名前の挙がる方でしょう。
───加茂さんが日本代表監督時代は、W杯予選で苦戦したことがサッカーファンの記憶に色濃く残っていると思うのですが。
日本人がW杯というものを誰も知らない時代です。未知の世界でしたからね。そういう時代に監督を引き受けるということは、想像以上のプレッシャーだったと思いますよ。
あのときW杯に行けるかどうかは、Jリーグにも影響があったでしょうし。
───その加茂さんは97年W杯予選韓国戦で逆転負け、カザフスタンに引き分け、更迭されてしまいます。その後は岡田さんがコーチから監督へと昇格しました。
青天の霹靂だったでしょう。岡田さんがあのときやりたいか、やりたくないかで言えばやりたくなかったのでは。なぜなら、あのときは彼の生きるテーマの中に「監督とはなんぞや」というものがなかったでしょうから。
───岡田さん就任後は悪い流れを断ち切り、初のW杯出場を勝ち取ります。
当時、日本中で岡田武史の名前を知らない人がいないほど人々が熱狂した中で、彼が次にどんな行動を起こしたかを我々は称賛しなければなりません。
彼は日本代表の監督としてW杯を経験した後、J2コンサドーレ札幌の監督になったのですよ。
───日本人の監督として頂点を経験したにも関わらず、もう一度修行し直そうとしたのでしょうか?
私はそう捉えていますけどね。
名のあるチーム、もっと強いチームで監督をすることもできたはずです。しかし、J2でもう一度、勉強してみたかったのか、自分の理論を実践してみたかったのか、いずれにしろとても向上心の強い男だなと思います。
───岡田さんと初めての出会いはいつですか?
どこかの試合か練習試合でしょうね。試合前とか試合後に声をかけるくらいで、特に会話らしい会話はしませんよ。
私が桐蔭学園監督時代にドイツ遠征した際、偶然に遭遇したことはあります。そのとき彼は古河電工の経費でウエストハムに勉強に行かせてもらっていて、その間の休暇でドイツに来ていたようです。
───1993年、Jリーグ開幕直前のことですね。
私は会社のお金でどこかへ勉強に行った経験がないものですから、「会社のお金で勉強に行けていいねえ」と(笑)。とても羨ましく思った記憶はあります。
───岡田さん側は日本代表コーチ時代、1995年福島国体で初めて出会ったと李さんの著書「Lee’s Words」のあとがきで書かれていますね。
ちゃんと話したのはそのときが初めてでしょう。
私は当時、桐蔭学園の監督をしていましたから、その関係で福島の国体に行きました。岡田さんは当時日本代表コーチでした。早稲田大学出身ですから、早稲田出身の監督さんにご挨拶がてら福島へ来たのか、ともかく同じ席で食事をしましたよ。
───岡田さんはその食事の席を述懐して「会話がかみ合わなかった」とも書かれています。
サッカー文化が違うところで育っていますからね。
彼は大阪の高校から早稲田大学と、学校組織でのサッカーで育って来ました。つまり言葉は悪いのですが、「蹴って走って頑張って」とか「根性」の世界です。それが良いとか悪いとかを決めつける気はないのですが。
私は「蹴って走って頑張って」とか「根性」とか、まったく思わず、考えもせず育って来ましたから、それはかみ合いませんよ。
岡田監督にみずから歩み寄った北澤豪
───第1次岡田政権といえば、サッカーファンはどうしても三浦知良選手、北澤豪さんの落選を思い出してしまいます。
日本中で「岡田が悪い!」という声が挙がりましたけど、私は「へえ」と思っただけですよ。
マスコミ全体が「岡田憎し」の空気を作りあげたのが印象的です。マスコミは恐ろしい世界を作り上げるものだなと。
選手を選ぶのは監督の専権事項ですから、どっちが正しい、どっちが悪いという話ではないのですよ。その議論をまぜ返す必要は感じませんね。
───2選手が落選した翌1999年、ヴェルディ川崎の総監督に李さんが就任し、北澤豪さんはヴェルディ川崎の選手でした。W杯落選の影響を感じたことは?
あるわけないじゃないですか。いままでそんなこと考えもしませんでしたよ。
もちろん内心、気分は悪かったのでしょうがね。W杯に落選したくらいでプレーが落ち込むような選手は、そもそもプロの世界でやっていけません。
そういえば、岡田さんと北澤君と言えば、忘れられない思い出があるのですよ。
───どんな思い出でしょうか?
私がヴェルディ総監督時代の2000年、オーストラリアでキャンプしていた時に、同じオーストラリアでキャンプしていたコンサドーレ札幌の岡田監督から練習試合をしようという提案がありました。
そこで私は「ヴェルディはJ1、コンサドーレはJ2。コンサドーレはヴェルディにいくらくれるの?」と、からかい半分で返答したのです。
───練習試合に金銭のやり取りって発生するものなのですか?
いや、金銭の話は冗談ですから。ただ、練習試合をしたあとに、両チームで食事会をしようと私から提案しました。
───食事会?
両チームの選手・関係者、現地で尽力してくださった方々を交えての、懇親会のようなものですよ。
彼は私の提案を受けて、戸惑ったかもしれません。「そんなものが必要なの?」というリアクションでしたから。岡田さんと私の違いでしょうかね。
───食事会では因縁のある岡田さんと北澤さんが顔を合わせるわけですね。
そのとき北澤君は、みずから岡田監督に歩み寄って挨拶に行ったのですよ。
北澤君としては、フランスW杯のことを思い出すと決して気分は良くなかったでしょう。
しかし、彼はそれを乗り越えて岡田さんに挨拶をした。なかなかできることではありません。私は北澤豪という男の立派さを声を大にして伝えたい。
───岡田さんも食事会をやって良かったと思っているのでは?
それは本人に聞いてください。
ただ、世間であれだけの騒ぎになった当事者同士ですから、お互いにさまざまな感情があったでしょう。北澤君がそれを乗り越え、岡田さんに歩み寄る姿は感動的ですらありました。
その舞台を作れたことが嬉しく誇らしかったですし、とても有意義な食事会になったと思っています。
遠い異国の地で、お世話になった現地の関係者にも見守られながら、一度は遺恨とも言える関係になった二人が再び向かい合う。これこそがサッカーの素晴らしさなんだと思うのです。
練習試合については、結果も内容もひとつも覚えていませんがね。
───ありがとうございました。
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