───しばらく更新していない間に年が明けてしまいました。読者の皆様にお詫び申し上げます。さて、前回は桐蔭学園の監督を1997年に辞任し、さまざまな高校で臨時コーチを務めていた時期の話を伺いましたが、今回はヴェルディ監督就任の経緯とプロのサッカー監督の世界を語っていただきます。
私は次の仕事を決めずに桐蔭学園の監督をやめました。いま考えると少し無鉄砲ですね。ただ、縁があってさまざまな高校でコーチをしました。
───それが1998年まで続き、1999年にはヴェルディ川崎の総監督に就任します。
1998年、清水商業でコーチを務めていたときに、ヴェルディ川崎社長の坂田信行さんから電話があったんです。
李国秀がヴェルディ川崎総監督に就任した経緯
───当時のヴェルディ川崎は、1998年をもって読売新聞がスポンサーから撤退、予算が大幅に削減されることが発表されました。それにともない、三浦知良選手ら多くの選手がチームを離れるなど、体制が大きく変わった時期です。
電話があったときは静岡のステーションホテルにいました。「ヴェルディの坂田だけど、ウチの監督をやってほしいのだが」と言われましてね。
「冗談でしょう?」とお返事したら、「いや、冗談じゃない」と。そこで「冗談じゃないのなら会ってお話を伺いましょう」と申し上げたら、翌日すぐに静岡までいらっしゃいました。そこで坂田さんは「監督を引き受けてほしい」の一点張りで、「君しかいない」とも仰られました。
───ヴェルディは、なぜ李さんを監督にしたのでしょう?
どんな経緯で私に話が来たのかはわかりません。あえて憶測するならば「安いから」ではないでしょうか(笑)。
開口一番、「ヴェルディを変えてほしい」「土台を作ってほしい」と熱っぽく言われたことを覚えています。
───李さんは読売クラブ出身者ではありますが、読売退団後は独自の路線でキャリアを築いてきました。ヴェルディはブラジル人路線でしたし、少し意外な気がします。坂田さんとは面識はあったのですか?
1974年、当時読売クラブが西ドイツに約1カ月遠征したとき(W杯観戦と現地チームとの試合を兼ねた遠征)、お会いした記憶はありますが、その後は疎遠でした。
日本テレビ側が何を思って私に監督を依頼したのか、私には憶測することしかできません。ヴェルディは1999年を境に読売新聞から日本テレビ主導のサッカークラブに変わりましたが、東京移転を見据え、2年間で私に土台を作らせ、それがうまく行けば東京移転と同時に松木安太郎君に引き継ごうという日本テレビのシナリオがあったのかもしれません。
───いま振り返ると、2001年の東京移転、松木監督就任まではシナリオ通りだったように見えますね。
私に土台を作らせて、「2年で一丁上がり、はい、さようなら」というわけです。こんな可哀想な人、世の中にいますか(笑)? 俗っぽく言うと「お払い箱」、固い表現では「契約満了」? さまざまな受け止め方があると思います。
とはいえ、契約時に2年と言われたので、しこりはまったくありません。むしろ、2年間で自分の理論を実践できたことに感謝しています。
───当時のヴェルディサポーターは李さんを「異分子」のように捉えていました。クラブが読売主導から日テレ主導へと切り替わっている現実についていけていなかった。
異分子とか現実についていけなかったといった言葉は私にはわかりませんが、そういった現象があったのなら、それはサポーター教育をしなかったプロマネージメントの失墜でしょうね。
私が社長だったら、サポーターへの説明に行かせますよ、毎試合。「今年はこういう方針でチームを運営していきます」といった具合にね。
私は日本代表の試合を読売新聞の評論の仕事で観戦することがありますが、サッカーを観に来ているというよりは、選手、有名人を観に来ている観客が多い印象を受けます。少なくとも良いプレーに拍手するといった雰囲気ではない。いまだに。
そうやってサッカーを観始めた人たちに、少しでもサッカーを奥深く知ってもらいたいという思いもあってブログをやっています。これもサポーター教育ですよ。
───クラブとサポーターが意見を交換する機会がもっと必要ということでしょうか?
ただ、サポーターがチームの方針を決めるわけではないですから。
たとえば、欧州でもチェルシーのオーナーは、サポーターから何かを言われたとしても、自分が考えたチーム作りを揺るぎなく実行するでしょう。そしてそこに「チームの色」が生まれます。
チェルシーのファンには「ロシア人にチームが買われるなんて冗談じゃねえ」と思った人もいたかもしれないし、オーナーは「嫌なら見るな」と腹の中では思っていたかもしれない。
しかし、チェルシーが良いサッカーを見せて、いまや流れは変わりましたよね。それでいいんじゃないですか。チームの色を形成するには、理念と財源と時間が必要だと思います。
プロの世界では選手交代を間違えただけで大変なことが起こる
───ヴェルディの総監督就任が内定したあと、最初に声をかけた選手は当時駒澤大学3年生だった小林慶行さんだそうですね。彼のどのような点を買っていたのですか?
小林君は中盤でリズムを変えられる選手です。日本代表で言えば本田圭佑君と同じです。
もちろん、本田君の方がドリブルと力強さでは、上かもしれません。しかし、小林君はフィード、つまりパスで局面を変える力で上回っていると思います。
───当時大学生だった選手がプロチームの中心でやれると確信していたのですか?
当たり前じゃないですか。確信していたからこそ声を掛けたわけです。
プロチームの監督という職業は「失敗したら腹を切る」ものです。監督が中心に据える選手を間違えたらチームは壊れるんですよ。みんな監督を信用しなくなります。ですから眼力、ノウハウが何より重要です。
───そういった眼力、ノウハウはどうやったら身につくのでしょうか?
決断すること、そして責任を負うことです。プロサッカーの世界は特殊ではありますが、企業に勤める方であっても決断と責任が眼力を養うのはないでしょうか。
───特殊な「プロサッカーの世界」とは、どういったものなのでしょう?
たとえば、私がヴェルディで監督をやるということは、私がチームの敵になるということなんです。チームみんなが監督を支えるなんてことはあり得ません。クラブ内にも勝負があります。
「コイツをいつ辞めさせてやろうか」「失脚しろ」「失敗しろ」、失敗したら「ざまあみやがれ」とみんなが思っているだろう、と。私がヴェルディ総監督に就任したことを喜んで受け入れた人なんて一人もいませんよ。
そんな世界ですから、先発メンバーを一人間違えただけで、交代選手を一人間違えただけで大変なことが起こるんです。
───ストレスの溜まりそうな職業ですね……。
試合前は緊張感で心の底からワクワクしますよ。そして、うまく行き始めるとチーム内の風向きが変わる瞬間があるんです。私はヴェルディを指揮した1年目の1stステージで2位になりましたが、風向きはガラッと変わりました。そうやって、風向きを変える、空気を変えるのも監督の仕事の一つでしょう。
「さすが噂に違わぬ監督だ」と思われればチームの雰囲気は変わりますし、「大したことないな」と思われれば、その瞬間に終わる。監督ってそんな職業です。
───とても生々しい世界ですね。日本ではコアなサッカーファンほど、監督業をコーチング理論の側面から、学問的に捉える人が多いように感じます。
監督が信頼を失うのは一瞬ですよ。私は全日空のときからプレイング・マネージャーをしていましたし、桐蔭学園の監督を10年間やって成功もありましたし、失敗もありました。
その経験を通して、監督でいる間、一つひとつの場面で「これは凄い」と思わせる瞬間を作り上げていかないと、風を作れない、風を呼び込めないと分かっていました。
コーチング理論をお勉強してS級ライセンスを取っただけでは、プロチームで監督をすることは難しいのではないでしょうか。
───なるほど。そのテーマはとても深い話になりそうですね。また別の機会にゆっくりお伺いすることにします。
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