Lee's Words 李国秀オフィシャルブログ

李国秀が読売クラブに入団するまでの話

16歳の李国秀。左は松木安太郎氏。

李国秀と読売クラブ同期の松木安太郎氏(左)。おそらく1974年

───このブログでは近況報告やサッカー評論の他に、李さんの体験談やエピソードもネットユーザーにご紹介していこうと思います。そこで、李さんの少年時代から2003年に経営者としてLJサッカーパークを始め、現在の肩書きになるまでを徐々に語っていただきたいのですが。

そんな昔から始めるの?

───はい。サッカーを始めてから読売クラブに入り、香港のクラブチームと契約し、その後、全日空でプレー。そして桐蔭学園の監督、ヴェルディ川崎の総監督へとなっていく……。サッカーファンなら断片的には知っているかもしれませんが、これを時系列に沿って語っていけば「李国秀とはこんな人だ」と、ユーザーが体系的に理解してくれるのではないでしょうか。

なるほど。ユーザーには楽しんでもらえそうかな?

───それはわかりません。しかし、ないよりあるほうがいいと思いますし、検索エンジン経由でたまたまブログを訪れたユーザーが、李さんに興味を持つかもしれない。

我々の世代は固定観念があって、どうしても形のあるものから入っていくから、インターネットとかfacebookとか、実はよくわかってないのですよ。その先に何があるのか。

───今の20歳前後のサッカーファンは、李さんのヴェルディ時代はまだ小学生ですし、桐蔭の選手権初出場は生まれる前の出来事です。つまりリアルタイムでは見ていない。そんな年代の方々にもブログでオピニオンを発信していくわけですから「李国秀とはこんな人間である」とわかるようなコンテンツは必要ですよ。

ふむ。

───それに、70年代、80年代の日本サッカーの話は、ネットで検索してもなかなか出てこないのです。李さんの内側からの証言はオールドファンには懐かしく、若いファンには貴重なものになるはずです。

では、徐々に語っていきましょうか。

朝鮮高校を辞め、読売クラブへ

───はい。サッカーを始められたのは何歳ですか?

小学校4年生。学校の部活だね。

───当時から上手かったのですか?

どうでしょうね。体があまり大きくなかったから。ただ、ミスをする子ではなかったから先生に怒られることはなかったかなと、記憶しています。小学校の頃は負けたら連帯責任でダッシュさせられるし、先生は怖いし、殴られるし……といったこともありましたが、サッカーに夢中だったし、負けるのは嫌でした。

───横浜の公立小学校ですか?

横浜の朝鮮小学校。正式には横浜朝鮮初級学校というのかな。私がサッカー上手かったかどうかはわかりませんが、中心でやっていたことは確かでしたね。

───本格的にやり始めたのは中学校から?

いや、そういうわけでもないのですよ。神奈川の朝鮮中高級学校の中学の部活で、先輩は怖いし(笑)。先生はとても親切な方で、サッカーを体系的に論じられる方でした。「ボールを失ってはいけない」とかね。

ただ、とても驚いたのが、試合前に金日成の「抗日遊撃隊」の本を読む時間があったりとか……。やはり精神論なのでしょう。そんな記憶が強いですね。

練習は、ボールを止めて蹴るとか、クロスボールとか、どの学校でもやるような基礎練習が中心でした。

───高校からは読売クラブへ行くわけですか?

朝鮮高校に行っていたけどすぐ辞めて、その後は読売クラブ。最初はユースチームに入ったのですよ。1973年、つまり高校1年の代の10月か11月か。

───高校は辞めてしまったのですか?

読売クラブに入ったときはね。もちろん、学校は行かなきゃいけないという思いはありました。母は「末は博士か大臣か」というような人だから、小さい頃から家庭教師を付けられていたし……。ただ、学校の勉強よりサッカーのほうが面白かったから。その後、東京の韓国学園という学校に入り、そこに通いながら読売クラブの練習に行くわけだけれども。

在日の狭い社会で生きるより、日本で認められたかった

───朝鮮高校はなぜやめたのですか?

朝鮮学校に対する矛盾を感じていたというか、在日韓国人、朝鮮人の中だけで生きることに狭さを感じていたのだろうね。日本にも朝鮮人社会というものがあって、今もあるのだけれども、当時は今よりもいろいろな意味で色濃い時代だったから、在日の中だけで生きるのが嫌だった。

日本で生まれたのだから、在日韓国人であっても日本社会の中で受け入れられ、日本社会の中で評価され、認められるようなことをやりたかった。それが辞めた理由です。高校1年の夏には辞めていましたね。

───10月に読売クラブへ入るわけですが、誰かの紹介ですか?

横浜サッカー協会の西海輝(にしうみ・ひかる)さんという方が紹介してくださいました。もう他界された方です。この方は後々も縁がある方で、桐蔭学園時代にヨコハマベイブリッジユースサッカー大会を開催するときにも、横浜サッカー協会が管理する三ツ沢球技場に日程を入れてくださったりとか、なにかとご尽力いただいきました。

───読売クラブを紹介して頂いたのは、やはり李さんがいい選手だから「サッカーを続けたほうがいいよ」という年長者の計らいのようなものだったのでしょうか?

いい選手だったからというより、サッカー少年だったからなんとか道を作ってあげたいと思ってくださったのではないかな。

多分、いい子だったんだろうね(笑)。イヤな子だったら誰も助けないよ。それは西海さんに訊いてみないとわからないけど。

当時、高校に行く、行かないの時にも「ドイツに行け」とか、いろいろアドバイスはしてくださったけど結局は行かなかった。お母さんを説得して、お金も出してくれるとなったのだが、そこまで踏み込めなかったのかな。今となってはわからないけれども。

朝鮮高校も夏までは我慢してやったけど、やはり限界がありました。

───朝鮮高校のサッカーが合わなかったのですか?

そういうわけではなくて、在日の狭い社会の中だけで生きるというのが、あまりにも虚しいというか、寂しいというか……。せっかく日本で生まれて育ったのだから、やはり日本の社会で認められたいなと。

この歳になったからそう言っているわけではなく、当時から日本の社会で認められようと、切実に思っていたよ。

付け加えておくと、在日はみな日本名を持っているのですよ。創氏改名という日本の植民地政策で、苗字を作りなさいと。金さんだったら金森さんとか金田さんとか。どこかにその片鱗を残すわけです。僕は李だから「木」という字を含んだ「森本」という苗字があります。あるんだけれども、一回も使ったことはない。

森本国秀という名前を使って生きて、よく調べたら在日だったとなれば、がっかりされるかもしれない。それよりは最初から堂々と「李」で行こうと。15歳の多感期に、李という名前を使って堂々と生きて、日本で認められたいと思ったわけさ。

読売クラブ入団後、すぐにトップチームと契約

───読売クラブ以外には選択肢はあったのですか?

静岡学園にも行こうとしていたね。それも西海さんの導きだけど。練習にも行ったよ。井田勝通さんという有名な監督さんが当時からいて、我が家まで来て「お母さん、この子は僕が面倒を見ますから」なんていうやり取りもあった(笑)。

ところが朝鮮学校の校長が静岡学園の理事長に電話して、「ウチの生徒を引き抜くとはどういうことですか? 新聞沙汰にしますよ」とやってしまって、ご破算ですよ。

そんな経緯もあって、余計に朝鮮学校にいてもしょうがないなと思いました。

───空白の数ヶ月を経て、いよいよ読売クラブに入団します。

芝のグラウンドで、さらにナイター設備もあって「すごいところだな」というのが読売クラブの第一印象。

最初はユースチームだったのだけど、ユースの監督が上に進言したんじゃないのかな。年が明けたら、トップチームの監督のファン・バルコムが見て、契約書を持ってきた。「サインしろ」と。それで1月末にサインしたのかな。そのとき「パスポートを取れ」とも言われて、1974年の2月末から3月にかけてシンガポール1週間、香港1週間の遠征に同行して試合に出たわけです。

その年は西ドイツでワールドカップが6月にあって、そのときも読売クラブの遠征で地元クラブと練習試合をしつつ、観戦もしましたよ。

その一方で、学校にも行かなければならなくて。まわりの人から「和光学園に行け」とか話はいろいろあったのだけれど、結局は入れてくれなくて。最終的に行ける高校の候補は2つに絞られました。

ひとつは堀越学園の芸能科。ここは費用も高かったんだけど、母もそれは出してくれると言ってくれました。しかし、ここでまわりの在日の人から、お力添えというか、余計なお世話というか(笑)、まあありがたいことなんだけど、「韓国学園に行けば」となって韓国学園に入学しました。

ただし条件があって、午前中の授業しか受けられませんと。午後は読売クラブの練習ですから。それで卒業証書をくれるなら僕は行きますと。そういう特別待遇で韓国学園に入れてもらい、卒業証書をもらったわけです。学校そのものが、そういうことを容認してくれたことはありがたかったかなという思いはありますね。

───当時の読売クラブの雰囲気は?

とにかくサッカーが大好きな人の集まり。金とか将来とかではなくてね。

その時代はサッカーをやる人は六大学だとか、中央大学だとかを目指し、そこを乗り越えた人たちが日本リーグに入っていった時代。読売クラブは一種独特で、「将来なんかどうでもいい。とにかくサッカーなんだ」というような人ばかりでした。

みんな若くてね。当時僕は16歳で、一番上でも25歳とかだったかと思います。同期では松木安太郎、他には小見幸隆さんとか、ジョージ与那城さんとかね。

───錚々たるメンツ……。そして、いよいよサッカー選手・李国秀が誕生するわけですね。長くなったので、読売クラブ時代については、次回もう少し詳しくお伺いします。

1974年当時の読売クラブ若手選手たち。前列左から2人めが李国秀

1974年当時の読売クラブ若手選手たち。前列左から2人めが李国秀