Lee’s Words 李国秀オフィシャルブログ

李国秀が語る読売クラブ2部リーグ時代の内幕

1974年シンガポール遠征で記念写真

───前回、李さんが読売クラブに入団するまでの経緯を伺いました。李さんがトップチームに昇格したタイミングは松木さんと一緒ですか?

そうですね。彼のお父さんは、たしか読売クラブの後援会長だったと記憶しています。私と松木とあとジョージ与那城さんと3人でいつも一緒にいましたね、当時は。

───李さんが入団した1973年当時の読売クラブはユースの下のカテゴリーもあったのですか?

ユースの下にもチームがあったのかな…。子どもたちがいたのは確かです。都並(敏史)君、戸塚(哲也)君、あとは尾崎加寿夫君とか。

一緒に練習していたわけではないけど、遊びでボール回しはやっていましたね。子どもたちをからかったりしていました。

───当時、読売クラブは日本のサッカー界で嫌われていたと書いている記事をいくつか見たことがあります。

それはラモスが入ってからじゃないの? 相手選手を追い掛け回して事件になったりしてたからね。私は読売クラブが嫌われていると、直接チームの中で感じたことはないですね。

激しかった読売クラブの紅白戦

───トップチームに昇格して試合にも出ていたのですか?

出てはいたけど、こっちは高校生で、相手は大人だからやはり最初は60分くらいしか体力が持たなかったですね。先輩たちもみんないい人だったし、徐々には慣れていきましたけど。

───チームメイトには、同期の松木さんの他には、ジョージ与那城さん、小見幸隆さん、さらに日本リーグ2部で得点王になった岡島俊樹さんなど、後に日本代表になる選手が多く在籍していましたね。

うん。橋本(好章)さんっていうのもいたね。日本代表候補、あるいはB代表くらいまではいったのかな。彼が同じポジションで私のライバルだった。左利きのとてもいい選手でしたね。彼と戦ってこっちが勝っていくわけです。彼を破らなければ試合には出られませんでした。

相手にも負けたくないし、チーム内でも負けたくないし。橋本さんより良いプレーをしなければ試合に出られないわけですから、紅白戦でこっちがいいプレーをするとユニフォームを引っ張られたりとかしましたね。当時の紅白戦は激しかったですから、ユニフォームが破れたりなんて日常茶飯事でしたよ。

当時のファン・バルコム監督も「世界で一番激しい試合は紅白戦だ」なんて言っていましたよ。

───ファン・バルコム監督から言われたことで覚えていることはありますか?

2つあります。ひとつは「ラインを引け」と。先発メンバーに選ばれて、ウォーミングアップしていたら、監督がやってきて「お前何やってるんだ?」と。「先発だからウォーミングアップしているんだけど」と答えたら、「一番のヤングボーイなんだからラインを引け」と言われたんです。

だから、私はライン引くのめちゃくちゃ上手いよ(笑)。それから読売クラブを辞めるまでは、意地でもライン引いていました。

もうひとつは監督に「俺には何が足りないんですか?」と質問すると、「何もない。技術的にはパーフェクトだ」と言われたこと。「必要なのは時間だけ」と言われましたね。つまり、経験が必要だろうということでしょう。

16歳くらいで技術的なものは、ある程度あったわけです。大人の中に入ってもね。

1974年シンガポール遠征 スタジアム前で
1974年シンガポール遠征 スタジアムで

高校生で読売クラブのレギュラーに

───2部とはいえ、高校生がトップチームで先発メンバーに入っていたわけですから、今なら「天才少年現る!」とメディアが持て囃したでしょうね。

それはどうかな(笑)。

当時は東京を中心に若手選手のための「ヤングフットボールリーグ」という、後のサテライトリーグのようなものがあって、そこでベストイレブンに選ばれて関西に遠征に行ったこともありますよ。選手では三菱で後に日本代表になるGKの田口光久さんとか、FWの関口久雄さんがいて、監督は富士通の八重樫茂生(メキシコ五輪代表)さん、コーチは日立の胡崇人(えびすたかと)さんという方。つまり、それなりに見識のある方々に評価をいただいていたと言えるとは思います。

上手い人は当時にもいましたよ。ヤマハのサッカー部で市川三雄さんという方がいらしたはずなんだけど、彼はものすごく上手くて。「こんな上手い人いるんだ」と驚いた記憶があります。

トップに上がったときは16歳だったから体も細かったけど、技術的にはやれていたと思います。三菱や日立といった日本リーグ1部の強豪が、読売クラブの練習グラウンドを借りて練習していることもあって、練習試合もよくやりました。三菱には現在、日本サッカー協会会長の大仁邦弥さんがいて、彼にユニフォームを引っ張られたりとか(笑)。まあ、いい思い出ですよね。

───読売クラブでの背番号は何番だったのですか?

17番。お気に入りの番号です。背番号をもらったときに17歳だったし、ちょうどいいじゃないかということでね。

───ジョージ与那城さんが10番ですか?

いや、ジョージは9番だった。10番は橋本さんがつけていたのではないかな。

読売クラブでは、契約してすぐシンガポール、香港の遠征に行き、西ドイツにも行かせてもらって、チームでフォーマルな服も支給してもらって……。大変ありがたいことでした。

───読売クラブに資金力があったからですかね?

いや、そういうわけではないでしょう。当時は資金的には大変だったのではないですか。何せ観客収入がないに等しいですから。

日本リーグ2部で優勝すると新宿の料理屋でパーティーをやって、そこに日本テレビのアナウンサーが来たり、日本テレビの社長が挨拶したりといった記憶はあります。ただ、読売クラブそのものにお金があったとか、そういう話は聞いたことがない。当時16~18歳でしたから、すべてを知っていたわけではないですけど。

───1969年創設の読売クラブが、日本リーグ2部とはいえ優勝したり、後に日本代表になる選手が集まっていたということは、驚異的なことのように思えます。創設5年のクラブですから。

東京教育大学、早稲田、慶應といった大学サッカーや、企業スポーツとして実業団が日本サッカーを引っ張ってきたのでしょうが、そういう中で異色の存在ではあったと思います。

だから読売クラブは羨ましがられていたかもしれない。しかし、企業チームには退職金はあるし、終身雇用だし、安定という意味では上でした。当時の選手は、安定を考えるなら、読売クラブではなかなか続けられなかったでしょう。

今と同じくチームカラーは緑
今と同じくチームカラーは緑

読売クラブ2部リーグ時代の布陣、戦術

───先に挙げた方以外で読売クラブにいらした方で有名な方は?

そういえばジェフ千葉でGMをやった祖母井秀隆さんもいらっしゃいましたね。突貫小僧みたいなプレースタイルでした。読売クラブでは珍しい関西弁で、よくみんなにいじられてましたよ。

───読売クラブのサッカースタイルや戦術面はどういったものだったのでしょう?

4-3-3のフォーメーションでやっていたというくらいで、後に言われるほど明確なスタイルは当時なかったと思います。ミーティングで監督が「ここがこうだからああなんだ」とかやってはいましたが、さほど印象に残ってはいないです。

ただ、技術的には実業団のチームよりも、上手い人が多かったのは確かです。技術重視というほどでもなかったですが。

試合中にパスを「くれ」と言って、来たパスがワンテンポ遅れ、マークがきつくなったりすると、「早く出してよ」と、よくチームメイトとなじりあったりしたものですよ。小見さんとかとね。

私はゲームメイク、展開する役割で、私がボールを持ったらジョージにラストパスを出す。で、ジョージはそれを決めるより外す回数のほうが多くて、「決めろよ~」なんてよく言っていたものです。

私は高校生だったから、みんな先輩だったけどそういうことは平気で言えましたね。読売クラブはそういう風土でしたし、こちらに言えるだけの力もありましたし。私はミスをしない選手でした。でなければ、高校生で試合に出られないでしょう。

───当時の読売クラブの先発布陣は?

サイドバックは松木、飯室順次さん。センターバックに佐伯さんという方がいて、もうひとりのセンターバックは高橋さんという方。高橋さんは大変才能のある選手でした。

ボランチには小見幸隆さん、私がゲームメイクで、ジョージ与那城さんがアタッキングフォワード、センターフォワードが岡島俊樹さん。左右のウイングには誰か、橋本さんが左をやることもあったと思います。

キャプテンは岩手県遠野出身の菊池洋二さんという方で、現在はまんじゅう屋さんを経営されているのかな。中央大学を出て、その後、読売クラブでプレーしながら国士舘大学で教職免許を取ったそうです。大変穏やかな、それでいてリーダーシップがあって、男っぽい方でした。菊池さんとシンガポール・香港遠征で部屋が一緒だったのがとてもありがたかったですね。親切にしてもらいました。

西ドイツへの1ヶ月の遠征では、後に読売クラブの監督になる千葉進さんと同室でした。菊池さんと千葉さんはふたりとも遠野出身で寡黙な方たちでした。

そんなメンバーでやっていて、読売クラブは2部では優勝したりするわけだけれども、入れ替え戦でいつも負けちゃうんですよ。

───高校卒業して読売クラブは辞めてしまうのですか?

母は好きにしろとは言っていました。ただ、大学くらいは行ってくれという世の中ではあったし、行きたかったのだけれども、当時は韓国学園は文部省の認定を受けていませんでした。つまり、韓国学園の卒業証書を持って行っても、どの学校も入れてくれないのですよ。

まず、六大学に行きたくて、法政大学に行くという話がありました。実力的には問題なかったけれども、文部省の認定の問題でつまづきまして。

しかし私の方はもう大学モードになってますから、大学行くしかないなと思ってて……。たまたま縁のあった大阪商業大学の上田亮三郎監督に「入れてください」と直接電話しました。

「ほんまに来てくれるのか!」と言われて、書類も送ったんだけど、やっぱりそこでも韓国学園の卒業証書が引っかかるわけです。

上田監督には「大阪で高校行き直せ。費用も面倒見るから」というありがたい話も頂いたのだけれども、私の方は「もう高校はいいですよ……」と。それでサッカーを辞めてアメリカの大学へ行く準備を始めました。

───ここで李さんが本当にサッカーを辞めていたらどうなったか。桐蔭学園の教え子たちはJリーガーになっていたでしょうか。森岡隆三や戸田和幸は2002年のW杯で日本代表になっていたでしょうか。後の日本サッカーにも影響のある決断だったかもしれません。続きはまた次回お伺いします

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