読売クラブの西ドイツ遠征にて。松木安太郎氏、小見幸隆氏の姿も見える。
───李さんは読売クラブを辞め、大学進学を目指しましたが、韓国学園が文部省の認定を受けていなかったため、どの大学にも入ることはできませんでした。このとき、読売クラブに戻って、働きながらプレーを続けようとは思わなかったのですか?
そんなこと夢にも思わなかった。サッカーでメシを食うなんていう時代ではなかったのですよ。
もう頭を切り替えて……西ドイツでワールドカップも観たし。一生に一度、観られるかどうかのものだと思っていましたから。2年契約も満了して更新しませんでした。いいタイミングだと思って、それでサッカーを辞めてアメリカの大学に行こうと。
アメリカ留学の予定が一転、香港行きに
───今の時代の感覚だと、2部リーグとはいえ、高校生で試合に出場していたのですから、サッカーを辞めてしまうのはもったいないなと思ってしまいます。
様々な大学からお誘いはありましたよ。ただ、韓国学園の問題で大学進学は全部ダメでしたから。それに私は普通の大学には行く気がなかった。もっと言うと、六大学以外は大学じゃないと思ってました。そういう時代でしたから。
では、なぜ大阪商業大学に「入れてください」と頼んだのかという話なんですけど(笑)。当時、大商大は強かったですし、いい選手もいましたから。
───しかし、当時の大学サッカーは自由な読売クラブとは対照的に、体育会の色が濃く、理不尽な世界であったと思います。合理主義の李さんには合わなかったのでは?
法政大学のセレクションに受かった時、大学に行ったら死ぬかもしれないとは思いましたよ。先輩に殴られて死ぬか、私が天下を取るか。それくらいの覚悟でした。
法政にいた有名選手は前田秀樹さんとか永尾昇さんとか。私は高校生で読売クラブの試合に出ていて名前が知られていましたから、セレクションで紅白戦をやると「おい、李が来てるぞ」となってガッツンガッツン来るわけです。ヒョイっとかわしましたけど(笑)。
もし法政大学に入っていたら、大学のしきたりみたいなものに巻き込まれるか、それを変えようとするか。私の性格なら変えようしていたでしょう。そこで先輩にボコボコに殴られるか、私が勝ちきるか、どうなったかわかりませんが、いずれにしても「これは命がけだろうな」とは思いました。
───アメリカへの留学を取りやめたのはどういったきっかけで?
6月くらいにファン・バルコムから電話があったんです。バルコムも私と同じ年に契約が切れて、その後香港代表の監督をしていたんです。
電話で「今何をやっているんだ」と訊かれたので、「サッカーを辞めてアメリカに留学します」と答えたら、「何をバカなこと言ってるんだ」と言われまして。「そんなことやめて、香港でサッカーやったらどうだ」と誘われて、グラっと心が動いてしまったんですね。
母に相談したら「好きにしなさい」ということで、渡航費をもらって香港まで行ったんです。
───香港では入団テストのようなものを受けたのですか?
香港では2チームで練習に参加し、1チーム目の練習で、すぐにオーナーが契約したいと言ってきました。しかし、ありがたいことにバルコムが付きっきりでアドバイスしてくれて、「ダメダメ、契約しちゃ。もう1チーム行こう。条件を比べていい方と契約するべきだ」と言ってくれました。
結果的に1チーム目のキャロライン・ヒルというチームの方が条件が良くて、飛行場で慌ただしく契約したのを覚えています。帰国便の1時間くらい前に契約書ができあがり、キャセイ航空のファイナルコールが、空港のアナウンスで鳴り響く中でサインして、結局飛行機を待たせてしまいました。
香港行きが大幅に遅れ、数カ月後に傷心の帰国
───奥寺康彦さんがドイツでプロになったのは1977年。李さんが契約したのは1976年ですから、日本育ちのサッカー選手としては初めての海外プロなのでは?
それは私にとって重要ではないから、あまり興味はないです。
香港では1年契約で、1977年には帰ってきたのですが、ビザ手続きの問題でミスがあって行くまでに半年くらいかかっているのです。香港サッカー界も当時はあまり整備されていませんでしたから。6月に契約した当初は、8月に香港でチームに合流することになっていたのですが、ビザがないから行けないのですよ。
英語が出来る人に間に入ってもらって、手続きをしようとしていたのですが、どうにも上手くいかない。それでこうなったら思い切って行っちゃうしかないなと。それが翌年、1977年の1月か2月。
しかし、8月に始動するチームへ1月に行ったわけですから、当然チームはもう出来上がっているわけです。
───チーム側の書類にミスがあったのですか?
チームが悪いのか、私が悪いのか、今となってはもう覚えていないし、よくわからないのですが、とにかく行っちゃうしかないと。日本ではなくてもビザは取れるわけですから。
───いったん観光ビザで入国してチームに合流しつつ、近隣の第三国でビザ手続きをすると。
そう。今にして思えば、8月の時点で観光ビザで入国してしまえばよかったのでしょう。しかし、当時は知恵がなかったですから。
それでチームに行ったらけんもほろろですよ。契約破棄だとか言われましたし。後ろ盾のバルコム監督が「訴訟起こせば君の勝ちだよ。契約書があるんだから」なんて言ってましたけど、そんなことはどうでもよかったんです。私はサッカーがしたかったわけですから。
で、結局試合に出られず、香港にいてもしょうがないやとなって5月に帰ってきました。
───香港のサッカーのレベルはどうでしたか?
まあまあかな。みんな上手かったですよ。読売クラブと比べていい勝負といったところ。技術重視でイギリス人も何人かいました。
香港でサッカーは人気がある競技ですから、スタジアムは超満員。スターもいましたしね。トップスターと一緒に食事もしましたが、マスコミに追いかけられながら葉巻なんか吸ってて、格好良かったです。
───キャロライン・ヒルの監督は香港人だったのですか?
香港人でした。名前は忘れてしまいましたが。
練習では監督に先発組に入れてもらって、フリーキックも任されたりしてたんだけど、オーナーが車で練習場まで来るたびに、紅白戦をストップさせて「李を先発組でプレーさせるな」と監督に命令するわけです。それでセカンドチームに落とされて……。そんな記憶があります。
───オーナーに嫌われていたんですか?
そりゃ嫌うでしょうよ。6月に契約して8月に来るはずが、1月まで来ないわけですから。オーナーのせいでも私のせいでもなく、ただただ不運だったとしか言い様がないけれども。悔しいけどしょうがないなと。
オーナーは非常に感情的でしたよ。私が来なかったのが癪に障ったんでしょう。私も悪態つきましたしね。誰のせいでもないわけですから、しょうがないじゃないですか。ただそれだけです。
これできれいにサッカーから足を洗って、さて何をしようかなと。もう本当にサッカーは辞めようと思いました。
───再びサッカーを辞める危機が訪れるわけですね。香港から帰ってきた後の話は、また次回お伺いします。
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