Lee's Words 李国秀オフィシャルブログ

李国秀が語る桐蔭学園サッカー部の黎明期

桐蔭学園理事長だった故・鵜川昇氏(左)と。1993年のドイツ遠征時。

桐蔭学園理事長だった故・鵜川昇氏(左)と。1993年のドイツ遠征時。

───前回、全日空について語っていただいた記事はネット上でちょっとした反響がありました。

アクセスが多かったということかな?

───端的に言うとそうですね。Twitterやはてなブックマークといったソーシャルメディアで、リリースから少し間をおいて反響があり、そこからアクセスが流れてきました。

なるほど。

───ネガティブな反響もいくつかありました。

私はそういうの慣れてますから。インターネットというフェアな土壌でサッカーを語り合っていけばいいではないですか。

───前回の記事では、ボイコット事件までの全日空内部の様子を語った部分に資料性を感じたユーザーが多かったのだと思います。全日空ボイコット事件について、当時、チーム内にいた人が語ったものはいままでネット上にはなかったのでは?

随分前の話ですからね。ジャーナリストと言われる人が、全日空ボイコット事件について書いたものを読んだことは何回かありますよ。

───その手の記事には李さんの証言は出てきませんね。ボイコット事件に直接関係ないとはいえ、県リーグ時代からピッチ内外でチームの中心だった李さんの証言やコメントが記事にないのは奇妙なことです。

奇妙かどうかはわかりませんが、記事を読んで的外れだなと思った記憶はあります。

───このブログは、聞き手(Lee’s Words Project)が李さんのサッカー評論や豊富な経験を後世に残していくために運営しています。ただ、李さんには日々の指導や活動もあって、ご自分でブログを更新する余裕がないので、今のところすべての記事はこのようにインタビュー形式になっています。

改めて思ったのは、このブログは質問に対して私が思うがままに答えるというスタイルでやっているので、時系列に沿っていない部分もあるし、不十分であったり説明不足な点があったかもしれません。

ただ、質問一つひとつには丁寧に答えているつもりです。こうしてブログに協力しているのは、サッカーを語るメディアに疑問を感じる点が多々あるからです。サッカー中継を見ていても、解説者に対して「何なんだ、これは」と思うことも多い。

───おそらく目の肥えたサッカーファンはほとんどが李さんと同様の感想を持っているのではないでしょうか。インターネット上、たとえばTwitterや2ちゃんねるでユーザー同士が交わす議論の方がよほど本質を突いていると感じることもあります。

私は人からよく「毒舌」と言われるのですが、自分のことを毒舌と思ったことはないのですよ。私は事実に即した評論をしているだけであって。毒舌というのは必要以上に悪口を言う人のことです。

───良いものは良い、悪いものは悪いと書く。諸外国では当たり前に行われている評論活動が、日本では毒舌になってしまうわけですね。

どうしてそうなってしまうのだろうと思いますね。

───メディアには多様性が必要です。李さんにとっては時に答えづらい質問もあるかもしれませんが、今後も誰かに媚びることなく、ブログを続けていきたいと思います。

今後、このブログが日本のサッカー報道のあり方に一石を投じていくためには、国民が注目する日本代表の試合への言及は避けては通れないでしょう。

───読み手の心を揺さぶるサッカーコンテンツとは何なのか。このブログはそれを追求していく実験的な試みになるかもしれませんね。

桐蔭学園サッカー部の監督に就任した経緯

───前置きが長くなりましたが、今回は全日空を辞めてから桐蔭学園の監督に就任した経緯からお伺いします。

桐蔭1期生のOBの方からお話を頂いたのですよ。まさか学校のチームの監督をやるなんて夢にも思いませんでした。人生には夢にも思わないことが起きるものです。

───当時の日本は1985年のプラザ合意から1年が経ち、空前の好景気が始まりつつありました。かたや桐蔭学園は急速に進学実績を上げつつあり、カリスマ的な経営手腕で学校を大きくしてきた故・鵜川昇理事長のもと、スポーツでも全国トップを狙う勢いでした。

桐蔭に入る前には当然、鵜川さんともお会いしましたよ。鵜川さんに「日本一のチームを作ってくれ」と言われ、「いえ、世界一を目指しましょう」とお答えした記憶があります。懐かしいですね。

細かな交渉はもちろんあって、まずは「人事権をください」と申し上げました。次に「部長は野球部長を兼ねる形で榊原滋(編注:2007年に桐蔭学園第3代理事長に就任)さんにしてほしい。それが条件です」とお伝えしたのです。というのも、聞いたところによると榊原さんは桐蔭の内部を一番良く知っている方とのことでありましたし。

当時、私は29歳でしたが、踏み込んで交渉ができた要因は、20代に全日空でマネージメントを経験していたからかもしれません。

───実際に監督に就任してみて第一印象は?

泥だらけのグラウンド、部室はないし、しかも部員名簿には200人くらいの名前が書いてあって……、桐蔭学園は一学年に男子だけで1000人以上いましたからね。東大を狙うような理数科の生徒もいまして、彼らは練習に出てこないのです。とにかく驚きました。話が違うぞと(笑)。

そこで先生に「真剣にサッカーやる子は何人いるんですか?」と訊き、私の考えを説明をしました。結果、何人かはサッカーを辞めたと記憶しています。

長谷部茂利ら、いわゆる新生サッカー部1期生が入ってきたのは翌1987年の4月ですね。

───それまでは既存の部員で試合をしていたわけですか?

そうですね。私は桐蔭に1986年の秋に入ったので、新人戦などと並行して選手のスカウトもしていました。

1987年から長谷部茂利ら1971年度生まれが入学してくるわけですが、彼らの代にはゴールキーパーがいなかったのですよ。そこで、それまでいた部員の中からGKをやってもらったはずです。そのGKのお父様の職業が全日空のパイロットだったそうで、不思議な縁を感じましたよ(笑)。

───桐蔭学園はサッカー部員が少ないことでも知られていました。

長谷部君らの代は11人だったかな。選手編成に関する人事権をもらってましたので、気に入った子がいれば獲りに行く。そんな感じでした。

ただ、学校側からは中学の成績はせめてオール3くらいは欲しいとは言われていましたけど。

───サッカーエリートを集めて少数精鋭でやっていたわけですね。

桐蔭学園は日本の学校の中でいち早く能力別クラス分けを実践していました。東大を目指すような成績優秀な子はアルファ、普通の子はベータ、出来が悪い子はガンマといった具合にね。

入部させたのはサッカーで言えばアルファの子ばかりです。一般入試で入ってきた生徒はほとんど入部させませんでした。桐蔭は能力別クラス分けをやっていましたから、この方針には学校として整合性があったと思っています。

理事長の鵜川さんにもこの話はしました。「学業では能力別クラス分けをしているのに、スポーツではどうしてそれをやらないのですか」と。鵜川さんは「なるほど~」と仰ってましたよ(笑)。

───旧来の「部活動」の枠組みにとらわれない合理性があったのですね。選手として日本のトップリーグを経験した人が監督をしている高校は当時、少なかったでしょうし。

桐蔭学園の選手スカウトはどのようにして行われていたのか

───ところで、選手獲得はどのように行われていたのでしょう? 中学生の大会を実際に観に行くのですか?

あと情報をもらったり、学校に呼んで見たりね。

私は試合は2~3分しか見ないです。どっちが勝とうがどうでもいいし、いい選手かどうかしか見ません。いろいろなやり方があっていいと思いますが。

───しかし、当時の桐蔭学園はサッカーでは無名。怪しまれたりしませんでしたか?

当時の桐蔭には実績がなかったですから、逃げていく子もいました。スカウトは難しいのですよ。技量のほかに成績、ご両親、学費の問題もあります。

手順としてはまず、中学校へは事前に「お宅の3年1組の◯◯君を桐蔭学園に入れたいのですが」と連絡し、その後、学校にお伺いすると担任や顧問の先生が対応してくれて、校長先生のところにもご挨拶に行くわけです。

学校を訪問しても「あなたそう仰るけど、どんな権限がおありなの?」と、訊いてくる先生もいらっしゃいましたよ。私も20代でしたし、心配になったのかもしれません。

そんなときは電話を拝借して、中学校の校長先生の前で桐蔭学園の榊原さんにつないでもらうんです。そして校長先生と代わると、榊原さんは決まって「李君の言葉は理事長の言葉と同じです。あしからず」とガチャ切りするわけですよ(笑)。

中学の先生の中には海千山千の方もいて、いい選手を見つけて学校に話を持って行くと、「それではこの選手も一緒に連れて行ってよ」なんて言われることもあったりしました。

───榊原氏とは桐蔭の話が来るまでは面識はなかったのですか?

一回くらいゴルフをしたかもしれないですが、ほぼ面識はないですよ。

ただ、桐蔭に入ってみてわかりましたが、学校のNo.2でしたし、部長をやってもらってよかったなと思いました。

一年目はよく榊原さんと酒を飲みましたね。おそらく彼は私の素行調査をしていたのだと思いますよ。この男はどういう酒の飲み方をするのだろう?という面から、私という人物を見ていたのでしょう。試されているような、そんな一年でした。

榊原さんとは辞めるときも相談しましたし、桐蔭を辞めてからもお付き合いさせていただいてます。

───実際、鵜川氏が2007年に他界された後、榊原氏が理事長に就任されていることからも、氏が桐蔭学園内で実力者であったことが窺えますね。

私は最初、桐蔭は3年で辞めようと思っていたのですよ。しかしいつの間にか5年が経っていて、その頃、榊原さんに「私はいつまでやればいいんですかね」と訊いたのです。

榊原さんは「一生やってくれよ」と言っていたのですが(笑)、「そうはいかない」という思いもあって、どこかで辞めるタイミング図っていた10年間でもありました。やりたいこともありましたし、高校サッカーという世界の狭さも感じましたし。

以前にも言いましたが、私は在日韓国人だけれども、日本の社会にうって出て広く認められたいという気持ちが、生きるベースなのです。

───長谷部茂利さんらが入学して以降は、李さんがスカウトしてきた選手中心の編成となりますが、長谷部さんの代は1年生の時から他校の3年生中心のチームと試合をして経験を積んだのですから、相当みっちり鍛えられたことになりますね。

1年目がベースですからね。

1年目でベースを確立できれば、2年目以降に入ってきた生徒たちは、見よう見まねで慣れていくし、長谷部らが入学してきた時点で、3年後はだいたいこんな感じになっているだろうなという構想もありました。様々なことを手際よくやれたのは、全日空でマネージメントを経験できたおかげでしょうね。

───長谷部さんらの代が1年生の時は、3年生中心の強豪校と当たればなかなか勝てなかったのでは?

体力では勝てないですね。しかし、勝ち負けよりも、大学やプロといった次のステージへと上がっていった時に「使える子」であることのほうがもっと重要なわけです。それにはサッカーの上手さだけでなく、服装や話し方といったエチケットも含まれます。

もちろん、勝って東大に入れてくれるのなら勝たせますよ。しかし、そうではないですし、優勝しても次の段階に行ったときに必要な能力が備わっていなかったら何の意味もないのですよ。

───選手を獲得するときに頼りにしていた情報網はあったのですか?

読売クラブの小見幸隆さんとかね。読売クラブはジュニアユースが強かったですから、「小見さん、いい選手いる?」といった感じで、訊いてましたよ。「どこそこのチームにこんな選手がいるよ」とか「あ~、でも李は気に入るかな」なんて会話をしていました。

読売クラブからもスカウトしましたが、読売クラブは彼らが評価する選手を外に出すことは当然しませんから、桐蔭で10年やってましたが、そんなに数多くはないですよ。

───お話を伺ってると、11人集めるのでさえ、気が遠くなるような……。

そうですよ。高校の監督というのは選手を「入れる」「磨く」「送り出す」、この3つをやらねばならないのですから、結構大変ですよ。

───なるほど。では、次回は桐蔭が強豪になっていく過程、「磨く」「送り出す」の部分ををじっくりお伺いします。