Lee’s Words 李国秀オフィシャルブログ

日本サッカーはドーハの悲劇から何を学んだのか?

───コンフェデ杯を控え、世間では日本代表の話題が盛り上がっておりますので、この機会に過去の日本代表について振り返っていただけないでしょうか。

安っぽく監督論を語っていいのだろうか、という思いはあります。私は心からサッカーを大事にしていますから、サッカーというものの認知が高まり、価値が高まることを常に望んでいます。

ものごとには過去・現在・未来という時間軸があります。つまり、どんなものにも成り立ちがある。日本はW杯5大会連続出場となりましたが、この記事が若いサポーターの方々に日本サッカーの成り立ちを知って頂く機会になればいいのではないでしょうか。

ハンス・オフトとの出会い

───日本国民が明確にW杯を意識したのはオフト監督の時代、世間で言うところのドーハの悲劇の前後からですね。オフト監督と親交はあったのですか?

親しく接して頂いたという感じですかね。

オフトと初めて出会ったのは、桐蔭学園の監督を引き受けたときです。

───1986年のことですね。

それまでも日本リーグで全日空というチームを作ったりしていましたから、指導者的な立場でのサッカー人生ではありました。しかし、初めて監督という肩書きで指導者の仕事を引き受けるにあたり、「指導論」とは何だろうかと考えたのです。

誰に話を聞いたらおもしろいだろうか? 当時の日本のサッカー界を見渡すと、日本リーグのマツダというチームでハンス・オフトが監督をしていました。彼と話がしてみたいと思ったのです。

───マツダのクラブハウスを訪問したのですか?

マツダがフジタ工業と平塚で試合をする前日、関係者を通じて時間を作って頂きました。私は通訳を連れ、チームが宿泊しているホテルまで行きました。

それがオフトとの縁の始まりですね。

───そこではどんなお話をされたのですか?

3時間ほどサッカー論、そして指導論を語り合いました。いま思い起こしてもあのときの会話はなかなか素敵だったと思います。

私は前年まで全日空の選手でしたから、オフトは私がどんな選手であったかも把握していました。彼は紙とペンを取り出して、「李はこういう動きが得意でこういう弱点がある」といったことを書き出すところから会話が始まったのです。

彼はサッカーピープルでしたから、すぐに心は通じ合いましたよ。

───サッカーピープルとはどういう人のことを指すのでしょう?

形式だとか、肩書きではなく、サッカーを愛する人を愛する人間のことです。

───オフトと語り合ったサッカー論とはどのようなものだったのでしょう?

彼はサッカーとは3つの「WH」のスポーツだと言いました。「WHEN」「WHERE」「WHY」この3つが大事だと。

日本語にすると「いつ」「どこ」「なぜ」。彼はこの3つの単語をしきりに言っていました。

───李さんもよくボールを「いつ出すの?」「どこに出すの?」「なぜ出すの?」と言っていますね。

私もサッカー指導の現場でこの3つの単語をよく使いますが、オリジナルはオフトなのですよ。

そしてオフトはこの3つを達成するためにはこういうトレーニング論があって、こういうトレーニングをするとおもしろいだろう、というようなことを私に惜しむことなく語ってくれましたよ。

───まさにサッカーピープルですね。

その後、私が桐蔭学園で指導者になって3年が経ったころ、充電のため欧州を一人旅したのですね。当時、オフトはオランダのユトレヒトでGMをやっておりまして、オフトの家まで訪ねて行ったこともあります。

───1990年、オフトが日本代表の監督になる前の話ですね。

オランダでは彼にホテルを手配してもらったり、イタリア代表とオランダ代表の試合のチケットを手配してもらったりと、1週間ほど、たいへんお世話になりました。

そんな経緯はあるのですが、そのときはのちに日本代表の監督になるなんて夢にも思いませんでしたから、彼が再び日本に来たときは心の底からびっくりしましたね。

───日本復帰の予兆もなかったのですか?

詳しくは知りませんよ。ただ、1990年にオランダで会ったときは本人も「もう日本はないだろう」という口ぶりでしたし。

彼が日本に戻ってきたときは、横浜で一番の老舗の料亭へご夫人とともにご招待し、返礼をしました。

───最初の質問に戻るようですが、李さんはなぜオフトとサッカーについて語りたいと思ったのですか?

外国人だからですよ。日本人とは視点が違いますし。

桐蔭学園という学校で指導者を名乗ることになったわけですが、桐蔭は知名度のある学校でしたから、私なりに頭のなかを整理しなければならないとも思ったのです。下手は打てない、日本語で言うと「しっかりやらなければならない」という気持ちでした。

───当時、日本のサッカー界でオフトの指導は評判だったのですか?

独特なものを持っていましたよね。独特なサッカー観を持っていましたし、選手にそういうものを要求もしていました。

そもそも、明確なサッカー観を持っていない人は、サッカーの監督という職業には就けないのですよ。そのサッカーが正しいか、正しくないかという議論ではなくてね。

まずどんなサッカーをやるかという明確なイメージがあるかどうか、それが大事なのです。

───日本では正しいか、正しくないかという戦術論は盛んですが、監督論や指導者論はあまりないですね。

私はメディアが「戦術がどうこう」という話をしているのを見ると、なんだかおかしくなってしまって。戦術ってなに(笑)? シーズンを通した戦い方のことか、その試合に限った話なのか。そういうことを整理もせずに、難しい言葉を使って戦術というものが語られている状況がとても滑稽だと思います。

それはともかくとしまして、結果的にはアメリカW杯に届かなかったとはいえ、ハンス・オフトのサッカーのやり方というものは見るべきものはあったのではないでしょうか。

いまも目に焼き付くショートコーナーのシーン

───オフトジャパンのメンバー編成についてはどう思われますか?

サッカーの監督という仕事は、どういうサッカーをするかという明確なイメージを持つことから始まり、そのイメージに基づいてメンバーを編成します。

ですから、オフトが選んだメンバーを見ても「ああそうなの」という以上の感想はないですよ。サッカーファン的な観点から「なんでアイツを使わないんだ!」と思うことはありません。

───では、メンバー編成や試合の映像から窺えるオフトジャパンはどのようなものだったとお考えですか?

「アイツが駄目だ」ということを言わせたいの? 特に感想はないですよ。

ただ、ショートコーナーからクロスボールを上げられ、失点したシーンはいまでも目に焼き付いています。

───イラク戦、ドーハの悲劇と言われる試合ですね。

指導者は、あのシーンから非常に多くのものを学べると思います。たとえば、足の出し方、体の寄せ方、体の向きといったことをね。

クロスボールを上げたイラク選手のDFに付いていたのは三浦知良君でしたが、彼は右利きの相手になぜ右足を使える体勢にしてしまったのか。あのときの足の出し方、体の寄せ方は、どうだったのだろうか。

三浦知良君が良いとか悪いという議論をしているわけではありません。ただ、あのシーンは私の指導者人生において、さまざまなことを明確にしていくきっかけにはなりました。とても印象深いシーンです。

───三浦知良選手はフェイントに引っかかり、その後スライディングで足を精一杯伸ばしたが、届かずクロスボールを上げられてしまいました。

オフトはチームにディシプリン(規律)を求める監督です。

しかし、そのキーワードからあの試合を見ると、最後どうしてああなってしまったのかと思いますね。指導者はいいシーンよりも悪いシーンが頭に残るのですよ。

ラモスについても、どの国との試合かは忘れましたが、日本が1-0で勝っているときに、ボコボコと長いボールを蹴ってしまっていたことを覚えています。どうして高校サッカーのようになってしまうのだろうと。もっとボールを大事にすればいいのに、と感じたことがものすごく記憶に残っています。

───オフトジャパンが李さんのサッカー指導を前進させるきっかけになったわけですね

私はこれを捨て台詞や悪口として言っているつもりはないのですよ。ただ、悪いシーンを回想すると、どうしてそうなってしまったのかと思うのですね。そしてそれを防ぐにはどのようなトレーニングが必要だろう? と考えるのです。

考えるだけでなく、自分が指導するときに生かそうとも思いますし。そういう意味では、日本代表だけでなく、どんな試合であっても見るべきものはあるのですよ。たとえ小学生の試合であろうとね。

───ありがとうございました。

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