Lee’s Words 李国秀オフィシャルブログ

Jリーガーを多数輩出した桐蔭・駒澤ルート開拓の背景

1989年度高校選手権 準々決勝vs.前橋商業戦 ベンチの様子

───桐蔭学園サッカー部の卒業生たちはさまざまな大学に進学していきましたが、林健太郎さんの代(1972年度生まれ)からは駒澤大学へ進学する生徒が増えました。

私を桐蔭学園に導いた桐蔭OBの方が駒澤大学出身で、「駒澤大学もなんとかしてくれ」と言われましてね。

長谷部君ら桐蔭サッカー部1期生が選手権に出場して、桐蔭サッカーの素晴らしさを証明したことで発言力が生まれたのでしょう。

───桐蔭学園の卒業生を駒澤大学に進学させることで強化をはかろうというわけですね。

私からは監督を代えること、大学の有力者と会わすこと。この2つを条件に桐蔭~駒澤ルート開拓を了承しました。具体的には、桐蔭学園の各学年の精鋭部隊を駒澤大学に進学させ、桐蔭学園と同じ世界観で4年間を過ごしてもらおうと。

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選手権では背番号10、キャプテンとしてチームを引っ張った長谷部茂利選手

順風満帆ではなかった駒澤大学の強化

───李さんは駒澤大学の監督だったわけではないのですよね?

私の息がかかった人物に監督をしてもらいました。そのために、それまで監督をなさっていた方に退いていただきました。

駒澤大学で誰が権力を持っているかというと、野球部の太田誠監督だったんです。そこで、太田監督と私、そして桐蔭学園の榊原さん、桐蔭OBの方、そして時のサッカー部監督で食事をしまして、その場でサッカー部の監督に「あなたが辞めてくれれば、この話は成立します」と言ったのです。

───駒澤大学の監督さんはどのように答えたのですか?

たいへん潔く退いてくれました。「李さんがやるなら私は退きます」とね。

しかし、駒澤大学の強化も順風満帆ではなかったんです。ある教授が「桐蔭から3人獲るのは多すぎる」と言いに来ましてね。とても不愉快な話ですけど。

───どう返答したのですか?

「それならやめましょう。桐蔭学園の生徒が駒澤大学に行く理由はないですから。勘違いしないでくださいよ、桐蔭学園は東大を目指す高校ですから。それを駒澤に行ってあげてるんですからね。やめたいのならやめましょうよ、この話」と、強く言いましたよ。

私が強く出た結果、そのクレームは取り下げたのはないですかね。

───駒澤大学側に李さんのポジションというか、肩書きはあったのですか?

ないです。そんなことには興味がなかったですから。自分のかわいい教え子たちには、伝統的な体育会体質の強豪校ではなく、私の息のかかった監督のもとでサッカーをやってほしいと思いましたから。もちろん練習を見に行って、指導することはありましたけど。

───背景には大学サッカー部の体育会体質への反発があったのでしょうか?

中央大学や明治大学に進学した桐蔭サッカー部1期生は、嫌な思いをしたんですよ。中央大学に行った長谷部君も頑張ったそうですよ。一年生時には丸坊主でやかん持って立っていたり……。

ですから駒澤大学では「根性見せろ!」とか「特訓だ!」とか、そういうものがない中でやりましょうということです。

───強化の甲斐あって、1995年には全日本大学サッカー選手権で優勝し、強豪校の仲間入りをします。

当時の駒澤大学は、もっと評価されていい。大変素晴らしいサッカーをしていたと思いますよ。

プロのチームと練習試合をしても、「どっちがプロなの?」という試合ができてましたから。

───林健太郎さんの代(1972年度生まれ)では福永泰さんが青山学院大学に進学しました。

林君の代では、他に海老名君という大物がいました。

私は駒澤大学に行ってくれと言ったんですけどね。親御さんがどうしても早慶に入れたいと仰られまして。彼は成績も良くて、桐蔭学園の入学試験を正規に合格したのを覚えています。スポーツ推薦では例がないことですよ。

───どこの大学に進学したのですか?

最初、慶應大学の後援会の会長に話を通したのですが、フタを開けたら落ちてしまいました。

それで早稲田大学に行かせたのですが、入学前の練習で怪我していた膝をさらに悪化させてしまったんです。

海老名君は凄い選手でしたよ。釜本邦茂さんみたいなセンターフォワードで、1m85cmくらいあったのかな。とにかく体が大きくて、ダイビングヘッドもまったく怖がらない。シュートも当たれば凄くて……大成すると思ったんですけどね。

───海老名さんは膝を怪我されて、その後どうしたのですか?

卒業はしていないと聞いています。大事に育てたつもりなんだけど、こういう形で挫折してしまって残念でした。

怪我をしたと聞いて、早稲田大学の加藤久にすぐ電話をかけて「何を考えているんだ」と言いましたよ。

───加藤さんはなんと答えたのですか?

「報告は受けていない。監督ではないから」と言いましたよ。

まあ、聞いたところによると海老名君は「膝が痛い」と言って走るのをやめようとしたようですが、コーチか誰かに「その程度の痛みでやめるな、高校じゃねえんだぞ」と言われて走ったら怪我したそうですよ。

本人がそこで「こんな学校やーめた」と言ってしまえば良かったのでしょうがね。

───ひどい話ですね。

大学進学も控えていたから、海老名君が3年生のときは、怪我を悪化させないように試合にもあまり出さなかったのです。その結果、これですから。

長くサッカー指導をやっていると、こういう何とも言えない話があるんですよ。胸が痛いとしか言いようがない。

こういうことがあって、余計に駒澤大学でいい環境を作ろうという思いが強まりました。

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Jリーグへ進出し始めた桐蔭サッカー部の教え子たち

───大学に進学した生徒の進路も李さん決めていたのですか?

やっていくうちに大学卒業後の進路も僕が決めることになってしまいましたね。

───長谷部茂利さんがヴェルディに行ったりとか……?

長谷部君は中央大学に行ったのですが、4年生の4月に読売クラブ出身で中央大学に進学した岡島清延君と一緒に私のところへ訪ねて来ましてね、「進路どうしたらいいでしょう。李さん決めてください」と言いに来たのです。

そこで「戸倉と二人でヴェルディに行きなさい」と言いました。戸倉君も最初は浦和レッズが狙ってたんですけどね。

───林健太郎さんも同じような経緯ですか?

林君は最初、名波浩君と一緒に名古屋グランパスに行こうとしていたんですよ。グランパス側が積極的にそういう動きをしたんでしょう。林君が「名波と一緒にグランパスに行きます」と言うから、「どうぞ」と言いましたよ。

そうしたら林君が「そうした場合、李さんと僕の関係はどうなるんですか?」と訊いてきたので、私は「じゃあな」と言いました。

───「じゃあな」というのは、訣別するという意味ですか?

いや、言葉通りの意味ですよ。

蓋を開けてみたら名波君はジュビロに決まってしまったし、グランパス側で名波君と林君を獲得しようとしていた構想も崩れてしまったのでしょう。それで林君はヴェルディに行くわけです。

───林健太郎さんは李さんとの繋がりを持ち続けたくて、ヴェルディに行ったのですか?

それは林君に訊いてほしいですね。私の「じゃあな」を林君がどう受け取ったかはわかりません。

───そういう経緯で桐蔭~駒澤~ヴェルディというルートができていったわけですね。次回はJリーグに次々と選手を送り出していった経緯について詳しくお伺いします。

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