桐蔭学園時代のドイツ遠征にて、対戦相手バイエルン・ミュンヘンのユースチーム監督だったゲルト・ミュラー氏と。
李国秀が桐蔭学園サッカー部監督を辞任した背景、そして監督をしていた時代(1986年~1996年)の後半期について語ります。李国秀の桐蔭学園時代については、こちらも御覧ください。
───李さんが1986年に桐蔭学園の監督に就任してから、1996年に辞任するまで約10年間、最終的に30人以上のJリーガーを生み出すなど、サッカー界でも注目を浴びる存在になっていきました。なぜ、その地位をあっさり捨てて辞任したのでしょう?
まず、ある意味では自分の仕事は達成したかなと。自分の理論が構築されたり、指導する中で「これだな」というものが見えてきました。
次に、このまま高校サッカーという枠だけで生きていていいのだろうか、という思い。
そして、高校の指導者を続けているうちに、いつの間にか卒業後の進路を世話したり……みたいなことばかりになってしまいました。たとえば大学に進学させるとかですね。
そういうことを毎年繰り返しているうちに、自分が何をやっているのか、だんだん分からなくなっていったんです。
もちろん、他の高校の指導者の方々や保護者の方々からは大事にはされていたのですが。
───辞めた時、周囲はどんな反応でしたか?
当時、桐蔭学園の理事長であった鵜川昇氏からは強く慰留されました。立派な料亭で一席設けていただき、「私がこれだけ頼んでもダメか?」とまでおっしゃってくださいましたが、私は「高校生も卒業していくのだから、私も卒業させてください」とお答えしました。最終的には私の思いを通していただいた形です。
社会的な風潮としては、やはり日本は終身雇用ですから、「なんで辞めちゃうんですか」と言われたりはしましたけれども、もっと刺激がほしいとも思いましたし、さまざまなことが重なって辞任に至ったということですね。
───桐蔭学園を辞めようと考え始めたのはいつ頃からですか?
実は3年経った時、つまり、1989年度の高校選手権が終わった後に辞めようと思ったんです。指導者とは、選手にエネルギーを与える仕事です。3年間、指導していくなかで、こちらのエネルギーが切れてしまったんですね。
しかし、翌年に入学する生徒も決まっていましたし、辞める段取りもできていませんでしたから、その時は思いとどまりました。欧州へ一人で旅をし、ハンス・オフトを訪ねたりして、エネルギー補充もしました。
結果的には桐蔭に10年いましたが、1996年に突然辞めたくなって言い出したわけではなく、辞める2~3年前から、いつ辞めても支障が出ないよう数年がかりで準備していたということです。サッカー部の生徒にもスカウトする時点で辞めるかもしれないとは伝えていましたし。
高校の指導者にはやるべき仕事が多いんです。選手を入れる、練習で躾ける、試合で発表会を行う、そしてプロや大学、社会に送り出すと4つの仕事を並行してやらねばならない。
「入れる」「躾ける」「発表会」「送り出す」の4つのサイクルは続けていかなきゃいけないので、辞めるのは大変でした。
U-17代表でも桐蔭では試合に出られなかった戸田和幸
───1975年度生まれの森岡隆三さんや廣長優志さんは1994年の卒業後、大学を経由せずJリーグ入りしました。米山篤志さんら、その下の1976年度生まれ以降の世代からは、卒業後のキャリアパスがより明確になったのでは?
高いレベルを目指していたのは間違いないですが、桐蔭をプロ選手養成所みたいに捉えるのは、少し違うかなと。大人になるための通過点として高校教育があるわけですから。
米山君は、当時、桐蔭学園でコーチをしていたスタッフが獲得してきた選手です。スタッフを育てる意味で、中学生の全国大会を見に行かせたんです。ですから、私は彼の中学生時代のプレーは見ていないのですが、獲得しました。米山君は栃木県の出身で、川村君という選手と一緒に獲得したのだと記憶しています。
───米山さんは入学後、1年生ながら先発で試合に出ていたそうですね。
1年生は筋力がありませんから、プレーが「ゆっくり」なんです。当時の2年生と3年生にはスピードのある選手が多くいましたので、速い選手と組み合わせるために、ゆっくりプレーする米山君を中盤で使いました。当時の彼が特別な選手であったかと言われると、そうではない。そのことは本人にも伝えた上で、試合で使いました。
彼は2年生の時は私が桐蔭でやっていたサッカーのロジックについてこれず、悩んでいました。DFに転向もしましたし。しかし、3年生になったときに霧が晴れたように、素晴らしいプレーを見せるようになりました。
米山君に限らず、私が桐蔭で指導した選手には、このような過程を踏んで成長していく選手が多かったですね。
───いちどスランプに陥り、その後、復活するということですか? どうしてそうなってしまうのでしょう?
彼らが中学生までやっていたサッカーは、「蹴って走って頑張って」という「蹴球」です。しかし、私は「サッカー」をやります。
選手たちは「サッカー」に必要なものが身に付いていないまま入学しますが、その状態から脱して、私が言うところの「サッカー」ができるようになるまで、早くて1年、遅くて2年かかるんです。
米山君の翌年に入学した戸田和幸君も同様ですよ。
───戸田選手は入学した時は、どのような選手だったのですか?
戸田君は東京都選抜で、読売クラブの小見幸隆さんから情報をもらって獲得した選手です。日大藤沢だったか、学校名は覚えていないのですが、彼のお兄さんもスケールの大きい有名選手でした。持っているポテンシャルで言えば、日本代表になった弟よりも上だったのではないでしょうか。
戸田君は桐蔭にはサイドバックとして入ってきて、1~2年生の頃は左サイトバックをやっていました。ところが、全然こちらの要求に応えられないというか、正直に言うと使い物にならなくてですね(笑)。U-17日本代表に選ばれている一方で、桐蔭では試合に出られなかったんです。
3年生でサイドバックに見切りをつけ、ボランチをやらせてからようやく花開きました。指導をするこちら側も、彼がサイドではなく、センターの選手であるということがわかってきました。
───プロ入り後はセンターバックもやっています。桐蔭でもセンターバックはやっていたのですか?
センターバックもやっていましたが、ボランチのほうが良かった。
1997年だったか、山本昌邦監督率いるユース代表が、ワールドユースに出た時も、山本君に「なんでボランチで使わないの?」と言いましたよ。
「4億円の貸しがある」 小林慶行との関係
───ワールドユースは観戦に行ったのですか?
中日スポーツから「記事を書きませんか、マレーシアまでの飛行機代は持ちますんで」と言われましてね。
韓国代表の試合も観に行きましたよ。ブラジル代表に3-10でボロ負けしていましたが。
───ブラジルとやると、そこまで差がついてしまうのですね。
韓国はオーソドックスな、高校サッカーのようなプレーをするのですが、ブラジルの選手はもっと大人びていました。
ボールの持ち方ひとつとっても、韓国は足元、足の真ん中にボールを置くので、次の動作に移るために、ボールを前に押し出さなければならない。つまり、ひとつひとつの動作が遅くなってしまうんです。
ブラジルはすぐに次の動作へ移れるように、足の30センチ前くらいにボールを置きます。ですから韓国選手が飛び込んでもかわされてしまうんです。その積み重ねが3-10というスコアになったのでしょう。私は試合を観る時、そういう細かいところを見るんです。
ただ、その試合後、韓国サッカー協会の会長だった鄭夢準さんが、ピッチまで降りて行って選手全員と握手していて、「あっ、この人、偉いな」と思いました。川淵さんだったら怒って帰っちゃうんじゃないですか?(笑)。
───桐蔭学園の話に戻ります。小林慶行さんも戸田選手と同学年ですね?
おお、コバちゃんね。
小林君はとてもおとなしくて頭のいい子でしたが、体が小さくて、入学した時にたしか160センチなかったのではないですかね。私はこの子をどうやって成長させようかと悩んだ挙句、毎日手元に置いて育てることにしたんです。
私は彼に4億円くらい貸しがあるんですよ。
───そうなんですか?
小林君は口数も少ない、いわゆる「口が重い」子でした。どうやって口を開かせようと考えた末、質問コーナーを作って、彼に質問させることにしたんです。
私は、彼がサッカーについて質問してくるたびに、「この質問はいくらだ?」と冗談で返していましてね。それに対して、小林君は「う~ん、3,000円くらいですかね」なんて言っていたのですが、そんなやりとりが3年間で積もり積もって4億円になってしまったんです。
───なるほど(笑)。
小林君は私がヴェルディの総監督に就任する時も一番最初に声を掛けました。
当時、彼は駒澤大学の3年生だったのですが、「単位どうなってる?」と訊いたんです。彼は3年間で卒業に必要な単位はほとんど取得していたようで、私は「ヴェルディに来ないか」と誘ったんです。
彼は「はい、わかりました」と即答してくれましたよ。
───桐蔭学園を辞めた後は、清水商業や帝京高校といった高校で特別コーチを歴任した後、1999年にヴェルディの総監督に就任します。
おもしろい話があります。桐蔭学園の監督をしていた時は、銀行に「お金を貸してください」と言いに行くと、すぐ貸してくれたんです。ところが、ヴェルディの総監督をしていた時は銀行が全然貸してくれないんですよ。
日本における銀行のあり方、世間の反応というものが、よく分かりました(笑)。
───桐蔭を辞めた後の話は、またゆっくりお伺いします。ありがとうございました。
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