全日空1部昇格記念試合、古河電工との試合後。ゲストプレイヤーのケビン・キーガンと。
───前回に引き続き、全日空時代のエピソードをお伺いします。
振り返ると……1980年代前半、横浜トライスター時代に早稲田大学と練習試合をやったのですが、元五輪代表監督の関塚隆君とか、城福浩君たちがいた頃で、今でも「あのとき李さん上手かったねえ」なんて言われることはありますよ。
あ、ちなみに私が言わせたわけではないですよ(笑)。
選手、監督、GMすべてを経験した20代
───李さんが基礎を作った全日空はやがて横浜フリューゲルスというチームになっていくわけですが、何か思い出されるエピソードはありますか?
当時、全日空は練習場を持っていないジプシーで、全日空の役員の人から「羽田にこんな土地があるけど」という話が来て、私が賛同すれば自前の練習場を持てるはずだったのですが、どうにも狭いというか中途半端な土地でした。結局、私が「やめましょう。そこにお金を投じる必要はないでしょう。どうせ作るならちゃんとしたものを作りましょう」と意見して、その話が流れてしまったこともあります。
───李さんは香港から帰国した1977年から横浜トライスターに加入した1979~1980年頃にかけて2~3年のブランクがあります。よくぞ日本リーグレベルまで持ち直しましたね。
実際、体は戻りませんでした。10代から20代前半の時期に基礎体力的なトレーニングをしていなかったわけですから、とてもしんどかったですよ。
全日空時代はおまけで選手をやっていたというか、トレーニングを仕切ったり、折衝したり、マネージメントをやっていたという意識が強かったですね。2~3年サッカーから離れていて、ブランクがありましたから。
───20代で選手、監督、そしてGM的な立場まで経験したサッカー人は今も日本にいないのではないでしょうか?
それはどうかわかりませんが、ラッキーでしたね。20代にして全日空の人事部長に「あなた何考えているんですか」と言ったこともありますし。
───それはどういう経緯で?
社員として入ってきた選手が、「自分は契約選手ではなく、社員として好きでサッカーをやっているわけですから、李さんの言うことは聞けません」と言い出したから、びっくりして人事部長に「何考えているんですか」と言ったのですよ。
最終的には「李君の言葉は会社の言葉だ」ということになって、落ち着きましたけれどもね。社員選手も午前中に仕事をして、午後の練習に来るのは大変だという事情もあったのでしょう。
でも、ある社員選手には「もう練習来なくていい」とも言いました。慶應大学を出た選手なのですが、選手として力がなかったですから。今から仕事の道に励めば出世もできるぞと。
数年後、その選手から手紙をもらいましてね。「あのときの李さんの言葉は厳しかったですが、今は肩書きもついてこんな仕事をしています。ありがとうございました」という内容で……。懐かしいですね。
───全日空には李忠成のお父様もいたんですよね?
彼は関東リーグまでかな。ハードタックラーでしたよ。全日空はもともとは街のクラブチームですから、移籍金とか契約金があるわけではなく、やりたいと言えば入れる。彼はそういう時代に入ってきた選手です。
───日本リーグ2部に昇格した1984年は、選手兼監督的な立場でチームを引っ張ってきた李さんが選手となり、監督には栗本直氏が就任。チームは日本リーグ2部で2位となり、1年で日本リーグ1部へ昇格を決めます。全日空が日本リーグ1部に昇格するにあたって、古河電工と横浜スタジアムで記念試合を行いましたね。
全日空のロンドン就航を記念した、いわゆるイベントゲームでした。イングランド代表だったケビン・キーガンをゲストに招いてね。ミスター・キーガンはナイスガイでしたよ。
古河電工には奥寺康彦さん、永井良和さん、あとは岡田武史君らがいて、我々が先制したけど負けてしまいましたね。
全日空1部昇格記念試合の先発メンバー。会場は横浜スタジアム。
「開幕戦は先発から外したい」と告げてきた監督
───その後、日本リーグが開幕します。
実は開幕戦の前に、栗本監督から「李、食事でもしようか」と言われましてね。監督と二人で食事をしました。この人は何を言い出すのだろうと思っていたら、「李、実は開幕戦は先発から外したいんだ」と。
───何と答えたのですか?
「どうぞ、お好きなように」と。
そうしたら、「そうか、李はわかってくれるのか。ありがとう」と言ってきたので、「いやいや、そうではないですよ」と。「私は開幕に向けてトレーニングを積んできたわけですから、開幕戦から外すということは戦力ではないとみなしたということですよね。ですから、何試合かして試合に出てくれと言っても出ませんよ」と言いました。
───結局、開幕戦はどうなったのですか?
監督も思うところがあったのか、私は先発で出ましたよ。相手は読売クラブで、全日空が負けましたけれども。ラモスに蹴っ飛ばされて怒ったことを覚えています(笑)。
───ラモス氏とは以前から面識があったのですか?
ありましたよ。彼が読売クラブに来た当時から。私が香港に行く前か、帰ってきた後か、そのくらいの時期です。読売クラブのみんなとワイワイ遊んだりしていましたから。
彼は英語ができなくて、言葉はほとんど通じませんでしたが、同い年だし通じ合うものはありました。「寂しい、ブラジルに帰りたい」とよく言ってましたね。
───日本リーグ2部から1年で1部へと昇格しましたが、1部での1985-86シーズンは2勝19敗1分と最下位に沈みました。
戦力的な限界でしたね。私も私でサッカー選手として大事な20歳前後の時期に酒ばかり飲んでましたから、コンディションも上がりませんでしたし。
コンディションを戻さなければと思って、横浜の馬車道にあったスポーツクラブで、トレーニングしてましたけど、結局はコンディションを戻すことはできませんでした。
私にとってチームトレーニングとは、確認をするためのものでしたから、自分のためのトレーニングは自分の時間でやっていたのですよ。それはともかく、20歳前後の時期は、サッカー選手にとってきわめて重要なのだと痛感しました。
───それにしても、開幕前に外すと伝えてきた栗本監督は李さんのようなタイプの選手が嫌いだったのですかね?
どうだろうね。栗本さんはGKとして藤和不動産に入り、その後フジタ工業と名前が変わり、引退して指導者になった人ですが、サッカー観の違いはありましたよ。
フジタ工業との試合前日のミーティングで、彼は「フジタは強いからスイーパーを2人置く」と言い出したのです。そこで私は「あなたがやれば?」と言いました。「我々はフジタが強いとか弱いとかではなく、サッカーをやるわけですから。スイーパーを2人置くなんてナンセンスです」と。
それでチームは「スイーパー2人なんて、それなら試合出ないよ」という雰囲気になってしまったんです。結果的に試合はスイーパー1人で始まりました。
私がチームを牛耳っていたとかではないですよ。ですが、スイーパーを2人置くという戦術は異常ですし、選手としては到底受け入れられるものではありませんでした。
観客席から見つめた全日空ボイコット事件
───チーム内に問題を抱えていたのでしょうか?
当時の全日空には様々な問題がありました。ひとつは監督と選手の意見も食い違い。試合中の選手交代に対して「ダメだ、そんなとこで選手替えちゃ」なんて声が上がったりしたこともあります。
冷静に考えればおかしな話ですよ。監督が選手交代しようとしているのに、選手が止めちゃうわけですから。何が原因でそうなったのだろうかと思いますね。要は監督を連れてきた人が手柄を取りたかったということなのでしょう。
次に全日空横浜サッカークラブという組織自体が脆弱でした。手柄を取りたいという人間がいっぱいいて、中はガチャガチャだったんですよ。そして選手とフロントが揉め、それが結局、世に言う全日空ボイコット事件に繋がっていくわけですが。
───全日空ボイコット事件について、もう少し詳しく訊かせてください。
私はボイコット事件には関わってないから、誰がどうしたとか、細かい話は知りません。ただ、先ほど言った「手柄取り」をしたい連中、変なおじさんが群がってきたのが原因でしょう。
選手の中でも、社員選手に小狡いやつがいましたよ。あっちに付いたり、こっちに付いたりしながらね。素人だったフロントをコントロールしようとしたんでしょう。組織ですから、そういう連中がたくさんいたのです。
───選手とフロントが揉めた原因は年俸が少ないとか、そういうことですか?
社員選手は文句は言わないですよ。なんたって全日空の社員ですからね。契約選手からは監督の選び方とかチーム運営に対して不満が出ていました。
金額面の不満は、深刻なものではなかったでしょう。他のチームなら高年俸を貰えるような、たいした選手がいたわけではないですから。ただ、軋轢が出てきたのですよ。
───ボイコット事件の日は何をしていたのですか?
あれは1986年の、日本リーグ最終節だったと思いますが(編注:1986年3月22日)、私はその前に辞めると全日空に伝えており、家内と西が丘サッカー場へ試合を観に行きました。ところが始まらないんですよ、試合が。
その後、全日空側は8人で試合を始めて、「やっぱりボイコットしたか」と思いました。その前から「やるぞ、やるぞ、ボイコットするぞ」と言ってましたからね。その年は日本リーグ1部であまり勝てなかったということもあったのですが、シーズン中から「フロントのやり方が気に食わない」と、何人かで集まっては「ああでもない、こうでもない」とガチャガチャやっていましたよ。
私はこのチームは自分が作ったチームだという意識がありましたから、後ろ足で砂をかけるようなつもりはないし、一切関わりませんでした。ボイコットした選手たちには「喧嘩するにもこっち側は対抗できるようなカードを持ってないんだからやめなよ」と言っていたのですが、本当にボイコットしたので、びっくりはしました。
結果、唐井直君ら、ボイコットした選手たちは永久追放というペナルティが科されたわけですが。
───李さんは最終節を前にして全日空を辞めた後、選手としてサッカーを続けようとは思わなかったですか。
当時28歳、まだサッカーはできると思って、日産の監督をやっていた加茂周さんに電話したり、マツダの二村昭雄さんに電話したり、自分なりにサッカーを続けようとはしましたが、結局どのチームにも入れませんでした。
選手時代はそこそこ楽しんだかなという思いはあります。チームを離れることを決めた後、全日空スポーツの会長のお宅に伺って、「今日で全日空を離れます」とご挨拶して、退職金代わりなのでしょうか、いくばくかのお金を頂きました。
金額は200万円だったかな。私は3億円くらい貰えるかと思ったのですが(笑)。そのとき私はこう言ったんです。「2億9千8百万円の貸しですね」と。
私は全日空というチームを最短で、最小の予算で日本リーグ1部まで上げたのですから。半ば本気でそう言ったのです。
日産自動車や松下電器がどのくらいの予算で、何年かかって日本リーグ1部へ上がったか、調べてみるといいでしょう。全日空はそれらのチームと比べても早く日本リーグ1部へと昇格していますし、予算ももちろん少ないです。その点では、私はいい仕事をしたと誇って言えます。
ですから「2億9千8百万円の貸しですね」という言葉はまんざら冗談ではないのですよ。会長は「わかった、すまない」と言っていたけれども。
それはともかく、まだ選手をやれると思っていたのですが、引き受け手がなかったので、自分としては納得して選手を辞めました。いまのサッカー選手にはできるところまで精一杯サッカー選手をやってほしいと思っています。私は「まだやれたのに」という思いがありましたから。
そんな中で次に行かなきゃいけなかったのです。
───そしていよいよ桐蔭学園の監督になるわけですね。桐蔭学園時代についてはまた次回じっくりお伺いします。
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